2025年11月9日「阿蘇市車帰 婦人会 宮本素子さん
熊本地震で 比較的被害が少なかったと思われている阿蘇市
でも、車帰地区は被害が大きかったのです。
60件の内 13件が全壊。
車帰地区の人々は 車帰公民館での生活になりました。
その時の様子を 当時車帰の区長をされていた奥様 宮本素子(もとこ)さんに
話しを伺いました。
集落の皆さんが 何処へ行っていいのか?
建物の下敷きになっている人もいた。
まずは婦人会が中心となり公民館での
段取りを決めていった。
若い消防団の人には救助へ
女性は食事の準備に。
それぞれのご自宅の冷蔵庫から
食材を持ちよって献立をたて作った。
地震後すぐは 約50人~60人の
公民館での生活となった。
電気は使えず自家発電。
それに使うガソリンは若手の人が
小国町まで買いに行ってくれた。
それがあり、テレビ・電気には困らなかった。
水は車帰のそばで 販売されているところがあり
そこからの応援があった。
トイレ用は 近くの用水地からタンクへくみあげ
使った。
ただ、トイレはひとつしかない。
ご年配の方を中心に使ってもらい
他の人は
公民館のまわりが田んぼなので そこを
活かしていた。
集団での生活だったので
衛生面には気を付けた。
外出した人には手洗い、消毒を徹底した。
お陰で病気が入ることがなかった。
この生活が2週間ほど続いた。
生活してみて・・・
大変な時だったが
ご年配の方は孫の様な年齢の子供達とふれあって
いた。
いい時間を過ごさせてもらったと言ってもらえた。
とてもいい雰囲気で一緒に暮らせたのではないかと
思う。
これが より車帰がひとつになり
今から復興へ向けてがんばろうという気持ちになれた。
車帰地域は昔から婦人会を中心に集まりがあっていた。
コロナになる前は
敬老会や色んな行事ごとで集まり
赤飯、お煮しめなど作って活動していた。
他の地域にはない集まりがあり凄いと思う。
だから 地震がおきても団結できた。
濃い避難生活2週間だった。
笑いがあり、ここから学校へ行き
お帰りと皆が迎える。
食事を作る人は大変だったと思う。
でも、楽しかった。
みんなが感謝の気持ちを言っていた。
振り返ると、あの時間が愛おしい。
車帰が一番
婦人会のまとまり
お父さんたちの関わり
なにがあっても ひとつになりますから!!
現在も さなぼり(田植えの後のおつかれ会)や敬老会で
コロナ前ほどではなくなったが
皆でお赤飯やのっぺ汁などを作って食べている。
この地域との関わり 大切にしていってほしいですね。