2026年4月19日特別番組「あの日から10年」
熊本を震度7の地震が襲ったあの日から10年という大きな節目を迎えました。今回の特別番組では、改めて「あの日」からの歩みを見つめ直し今もなお続く挑戦やそれぞれの想いを本田みずえ、風戸南陽子、村岡章子がお届けします。
まず村岡章子が取材に伺ったのは「阿蘇神社」です。
熊本地震では、国指定重要文化財の楼門と、そして拝殿が全壊するなど大きな被害を受けました。
お話しを 阿蘇神社 権禰宜の内村泰彰さんに伺いました。
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内村さんは本震の朝、どこで迎えられましたか?
・・・もう直後ですよね。自宅が神社の真裏にございますので
感覚的にただごとではないなっていうのはもう受けた瞬間にわかりました。
神社の方に駆けつけ・・・
楼門の姿、そして拝殿の姿を真っ暗な中だったんですけど、
車のライトに照らされた そこに倒れている状況っていうのを目の当たりにいたしました。
あの時の初めて見た感覚っていうのは本当言葉にならないとしか言いようがないんです。
悲しい思いでございましたね。
村岡が見た時、
ガシャンと崩れたのではなくて、そっと横たわったように見えたんです。
結構 皆さんそうおっしゃいましたね。
ガシャガシャいったというよりは、スーッと伏せられたっていうような言い方を結構皆さんされます。
また、そういう姿がやっぱり皆さんの心を打ったんですかね。
明るくなってたくさんの方が涙を流されてたんですよね。
結果的にやっぱり皆さん守ってくださったというような言い方をされるんです。
こう守られて座られたような感じを受けられたからですかね・・・
やはり 今まであって当たり前だったものがやっぱりなくなって初めて出てきた感情というのが
涙なのかなと本当に思いました。
でも その涙で私は 悲しい方の涙ではなくて、気づけられる涙だったんです。
皆さんがやっぱりこれだけ泣いてくださるぐらい大事に思っている場所、阿蘇神社なんだと
再認識させていただくきっかけになりました。
その思いを持ってあの地震から この 10年復旧復興をずっと力強く行うことができたのは間違いないと思います。
復興に向けてまず取り組まれたのは何だったんですか?
お祭りを欠かさないっていうことでございました。(農耕祭事のお祭り)
唯一できることはやっぱり祈ること!
そもそも地震というのはやっぱり自然の出来事であって、
それを和めるためには、やはり日々のお祭りを続けなければいけない。
また、お祭りをすることによって、皆さん少しでも安心していただければという思いでした。
まずは 道具なんかもやっぱり壊れたりとか割れたりとか色々な状況にあったんですけども、
それを拾い集めてできるだけの材料で できるだけのものでできる限りのお祭りを
次の日からしたっていうのが一番初めの取り組みでしたね。
次に「復旧 再建」です。
一番心配だったのがお金が集まるのだろうか?ということですね。
とんでもない金額だよねって思いながらだったんですけど・・・
結果的に なんとかなりました。
文化財(楼門)については、国と県と市の補助が大きく出たということはあります。
文化財じゃない「拝殿」についても なんとか本当に集めることができた。
それだけやっぱ多くの想いが集まり、多く現金が集まったおかげで、これだけのものができました。
結局、地域の方々が やっぱり神社さんが守ってくださったというあの言葉から始まり、
阿蘇神社は 1日も早く直さなければいけないという大きな力となって、
それが実際に集まったお金につながったと思うんですけどね。
まずは「拝殿」が完成しました。
令和 3年でございましたね。
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初めは全部外材で建設を行う予定だったんですけれども、地域の方からの熱い思いを受けまして、
地元の材料を・・ということに!
100年 200年先まで持つような建物を作るとなると、それなりに材料を吟味して使わないといけないので、
その辺の調整ですとか、大変な分は多々あったんですが、あのおかげさまで 9割 5分ほぼほぼ国産財で
8割が県産財で 5割は阿蘇の地域の材料で拝殿は建て替えることができました。ヒノキでございます。
最もありがたかったのが、材料の量としては本当に一部ではあるんですが、
地元の学校の演習林が使われたのです。非常に貴重なものをいただいたと思っております。
約 100年間にわたって育ててきた木。
100年×卒業生っていうとですね。
どれぐらいになるのかちょっと想像つきませんけれども、
それだけの方々の手が加わり想いが加わった材料が一部入るっていうのは
お金には変えられない付加価値がこの建物についたんじゃないかなと思います。
そういう想いを持って建物ができたっていうことは、もうこれまさしく復旧復興にとって、
シンボル的な建物になったんじゃないかなと本当に思いまして、大変嬉しかったとともに
地域と神社をつないでくださった やっぱり神様のご縁なんだなと本当に嬉しく思った瞬間でございましたね。
次に「楼門」は やはり時間がかかりましたね・・・
出来上がりましたのが令和 5年でございます。
正直当初の予定よりはずいぶん早かったと。
10年ぐらいというところで始めた中、実際 7年ぐらいで出来上がりましたので
思いのほかは早かったですね。
ただやっぱりその作業内容としてはものすごく大変なものがありました。
何が一番大変だったかというと、文化財ということもありまして、
可能な限りやはり元の材料を作って戻さなければいけない。
そんな中、設計図がないのです。
江戸時代に立ってから一度も解体修理をしたことがないので、そもそものまず図面がない。
今、地震で倒壊している状態。
この状態からその材料可能な限りいけどりをして、
それをもう一回採用しなければいけないというのは、
もう前代未問というか、文化財としてこれだけの規模のものが倒れて再建したという例がない
と、設計管理の方々から伺ってたんで、これはとんでもない事業だなと初めに思いました。
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実際に受け負われた大工さんもやっぱり初めに見に来られた時に
「いやこれはちょっと難しいですよ。できるのかなっ?」ていう様相を呈してましたので、
時間は本当にかかるなと思ってたんですが、おかげさまで。
前よりもっと立派になって楼門が出来上がりましたね。
だんだんと形が見えてきた時には一般公開されました。
あれはあれで希少ですよね。
あの素屋根があるからできることというか、その楼門の高さが 18メーターありますが、
その近くまで登って間近に見ることができるっていうのは、
特に 2階部分の屋根の裏側とか細部をこう見ることができるっていうのは
まずもうないでしょうね。皆さん喜ばれましたね。あの時は。
もう村岡も間近で見ることができて興奮しました。かなりの行列でしたよね?
生理券配ったりして 私たちも初めての経験でしたけれども、
やってよかったな~と思うぐらい。
皆さんをお待たせした分の何かお返しができないかなという企画だったんですけど、
非常にいい企画でございましたね。
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熊本地震で崩れてしまったのはとっても残念なんですけれども、
でも 今まで見ることができなかったものを改めて間近で見られた10年だったかなとも思うんですよね?
そうですね。だから私は復旧にとっては自分のモチベーションをどこに持っていくかってすごく大事で、
マイナスじゃなくてプラスにどうやって変えられるかっていうことだと思うんですね。
倒れてしまったことは残念なんだけど、これから立て直していけばいいわけであって、
やっぱりその皆さんが協力して立て直すことによって立てた人々の思いと我々の思いもつながって、
地域と本当に強固な見えないエネルギーが出来上がっていくっていうのを
本当に今回の地震で思いましたので、決して 地震って悪いことばっかりじゃなくて、
いいこともたくさんありますし、やっぱりそういうことをモチベーションとしてやっていくと、
楽しみながらこう復旧工事ができた部分っていうのは結構あるんですよね。
阿蘇神社は 2300年ほど歴史があるわけでございますが、
その長い歴史の中でもこれだけの被害を受けたっていうのは記録にないわけであって、
その新たな歴史の 1ページに立ち会えたってなんかすごいことだと思いませんか?
あったことは不幸だけれども、やっぱりそれを乗り越えたってこともすごい自信だと思いますし
10年前の自分より確実に私自身も成長できたかなと感じる部分もやっぱりたくさんありますし
熊本地震を乗り越えたことっていうのは非常に自分にとっても意味のあることでしたね。
それもこれも全部、やっぱり地元の方々が阿蘇神社さんが守ってくださったから、
1日も早く立て直さなければいけないというあのお言葉ですよね。
皆さんからそういうお支えをいただいたことによって、意思が一生懸命やりがいを持って
復旧復興ができた 10年だったと思います。
現在、阿蘇神社周辺と門前町商店街では 「阿蘇ちょうちん祭」開催中です。阿蘇神社楼門はライトアップされ門前町商店街では 1000個の提灯の灯りが灯ります。点灯時間は午後6時~午後10時。5月10日(日)までの開催です。お出かけください。
本田みずえがお話を伺ったのは、熊本地震で大きな被害が出た益城町の弘安西小学校で難所運営にあたった当時の校長で、現在は大和町教育長の井出文雄さんです。
熊本地震から10年が過ぎました。前震・本震が起きた当時を振り返ってお話をきかせてください。 『前震は夜の9時過ぎに遭遇しましたが、新年度で学校は子供たちはのために先生たちが準備をしたり、PTAの皆さんが総会の前の準備をしたりということで、まだ学校内にたくさんの人がいました。そんな中、そろそろ片付けをして翌日に向かおうという時でした。地震後、80名から100名ぐらいの方が体育館を目指して避難してこられましたので、学校にいた職員が急遽対応して避難者支援に当たりました。』 『16日の未明の本震は、まさかのまさかで、それまでの常識としてはしばらくは余波があるかもしれないと想像していたんですが、それよりもひどい地震がしかも同じ場所でというのは大変驚きましたし、また多くの皆さんがうちの小学校にも目指して来られました。』 『ちょうど裏にはグランメッセ等もありましたので、地域の方だけでなく車で通りかかられた方々にも頼っていただいてたくさんの方がお見えになりました。』 益城町内の建物の被害などは、メディアでも大きく報じられましたが、校舎の被害はどうでしたか? 『役場近くが一番ひどく被害を受けたようですが、広安西小学校は新しい建物で、幸い建物に危険が及ぶような状況にはなりませんでしたので避難所としては適切であるという判断を受けて、避難者を受け入れました。』
発生の直後から 8月半ばまで避難所運営されましたが、多い時で何人くらいが避難されたんですか? 『一番最高で800人ぐらいだと思います。後で報道を見てたくさんの方がいらっしゃっていることは承知していましたし、隣にグランメッセがあり、そこで車中泊をしていらっしゃる皆さんが必要に応じて避難してこられたり、支援物資を受け取りに来られたり、天候次第で校内の避難をされるという方で、流動的な毎日でしたので正確な人数はあまり把握できませんでしたが、精一杯のところで体育館や教室等を開放して、そのニーズにお答えしました。』
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食料、水、トイレの問題、衛生面、いろんな課題があったと思いますが? 『これまでの経験を超えている、予想を超えるということに対する対応という点でのプレッシャーはたくさんあったかと思います。ただ、それを何とかしなくちゃならないという、目の前の避難者の方、うちの校区の子どもたちをなんとか無事にという、そういう使命感に燃えるということが、それを乗り越える力になって、いろいろな解決策を出していきました。』 学校のは5月9日に再開をしましたが、同時に避難所としても学校は続いていました。子どもたちのケアと同時に避難されている小さな子ども、お年寄り、あるいは障害のある方までのケアで気をつけられた点はありますか? 『発災直後は役場の統制等もあまり取れていませんでしたので、見よう見まねで私ども職員が精一杯のことをやりました。翌週の18日ぐらいからは役場も避難所を運用したり、高知県や富山県からの組織的な支援があって、避難所運営そのものは役場の管轄でしっかり整っていきました。』 『学校を目指してこられる支援の方や避難の方、あるいは支援物資などは学校側で担った方が効果的ではないかという判断をしたものは、こちらにも情報をいただいて、精一杯避難者の方に支援をしていく状態でした。」
避難所を運営していく中で、避難所内閣というものが作られましたね?
『そうですね。後でネーミングは広西内閣となりましたがこれにはいろいろ意味がありまして、一つは我が身を振り返らずに駆けつけてくれた職員が自分の特技や知恵を生かして汗を流してくれた。そうやって頑張ってることを称賛、認めるためのネーミングでした。』
『職員も時間によっては家に帰ったり、今都合がつきいて来ましたというふうに入れ替わりますので、誰がどんな仕事をしているのか、それをいつ誰に引き継ぐかということが分かるために、私のメモとして書いていたのが大臣任命でして、冗談半分というか職員室を出ると非常に切羽詰まった、そして笑い声なんかとても不謹慎な状態が想像されるような避難所でしたのでせめて頑張っている職員が職員室内での笑いを取ると言いますか、そういうためにユーモアを交えて作ったのが広西内閣の発足でした。』
現在教育教室でお話を伺っていますが、壁に当時のものが張り出されていますね。
『そうですね。思い出深いし、もう一瞬にして 10年前にワープするような記憶が蘇ってまいりますし、当時にその活躍した先生たちの姿が本当に思い出されるところであります。』
子供たちも初めての経験で大変恐ろしい思いをしたと思いますが、 6年生が作ったニコニコボランティア新聞も話題になりましたね。
『避難所として、命の安全をどうやって確保するか、安心して過ごしていただくにはどうするかということで運営をしまいた。もう一つはやっぱり学校ですから、子どもたちが落ち込まないでほしい。地震は大変な心の傷になるかもしれないけれども、それを何とか前向きにこう消化して次に進めてほしいそんな気持ちでいたところに、職員の中からも提案があり、子どもたちがじっとしているだけじゃなくて、自分たちのやる気を生かして活躍する場を何とか任意で募集してやりたいということで言ってくれて、それにやりますと言って応募してくれたのが広西ニコニコボランティアチームです。』
『彼ら彼女らは、実際に目にした支援の方々や自衛隊の方々、奮闘する先生たちの様子などに注目して、自分たちも弁当を配ったり、お声掛けをしたり、挨拶をしたりといろいろできることをやったんですが、そのうちの一つとして他の人にも目を向けて、それを紹介したい、そして避難者の方を元気づけたいということで、新聞を作ることになったと思います。』
避難所では多くのボランティアの受け入れ、それから被災地訪問してくれたタレントさんなども来られましたね。
『もう思い出深い出来事が毎日起きました。支援していただいた皆さんとは、今も残念ながら全国各地で災害が起きたりしますけども、そんな折に呼びかけがあったり、一緒にやろうというお声を掛けていただいたりして、一緒に活動することもあります。』
『それから有名な方々には、子どもたちも元気にしていただきましたので、テレビを通してとか、いろんな報道を通してとか、近いところでおいでになる時とか、そういう時にお会いできる時には同じ話題をもとに懐かしい語りができています。』
その後、井手先生は防災活動講演会などもしてこられました。
『私は熊本地震を経験して、たくさんの皆さんにご支援をいただいたので、ありがとうございますという気持ちで、この経験が語りを通してどなたかの役に立つならという気持ちでいましたので、どこでもお声掛けいただければ伺いますということで、いろんなところでお話をさせていただく機会をいただきました。また新たな世界そして新たな認識を私自身が学びとして持つようなところがありました。』
日本国内ではあれからも大きな地震に見舞われたり、熊本で言えば豪雨災害も発生しました。防災という観点で言うと、そうした経験記憶の継承というのは非常に大事ですね?
『ないのが一番ですが、その教訓が生かされるためには、語りであったり、記録であったり、そういうのを継承していくというのは大事かなと思います。私も2020年の災害で精一杯勤めさせていただきました。このお礼がのつもりでですね。そんな中で自分の経験が多少なり生かされた部分、あるいはまだまだ避難者支援のノウハウがスキルアップしていないなと思う点、両方感じたところですので、完璧はありませんが、そういった経験が次に生かされるような取り組みをさらに続けていきたいと思っています。』
風戸のリポートは健軍商店街でした。
withで初めて健軍商店を紹介したのは2016年7月3日の放送でした。七夕まつりを取材させていただき、七夕飾りを子供たちが掲げているのを見て「夏になった」と気持ちが動きました。
熊本地震で自慢のアーケード「ピアクレス」も破壊。地域のために、子ども達も待っているだろうと七夕まつりの開催に至りました。
熊本地震直後の健軍商店街は、アーケードの破損、店舗の倒壊、大きなスーパーは全壊判定を受け、解体の工事もあり大変な状況でした。
当時、健軍商店街振興組合の青年部長だった井川電気の井川正宏さんを訪ねました。そこから度々、番組では井川さんの声をお届けしています。
この10年で若い世代も交りながら、健軍商店街は動き続けています。
現在は理事長になられた井川さんと、健軍商店街の中でDo Challenge clubを運営されている古庄健太さん、(建軍商店街振興組合理事・まちづくりuse代表)にインタビューさせていただきました。
5・6年前に商店街に入った古庄さん。その後、井川さんは古庄さんのお父さんと元々知り合いとわかり、びっくりしたそうです。
古庄さんが商店街に店を構えるきっかけは、小学校の同級生が3代目として商店街でお茶屋さんを運営していたから。
地震の頃はいろんな体育館を回りながら体操教室をやっていた古庄さん。体育館は全てが避難所になり活動の拠点が確保できなくなりました。
そこから店舗を構えるようなきっかけができ、少しずつ店舗展開をしている中、健軍商店街にはコロナ禍で店舗を構えられました。
同級生から商店街がなかなか大変なんだと話を聞いて、自分の事業は子供たちを集めるサービスだから人を集めるのには向いているのではと動き出しました。
その後スポーツクラブだけでなく、シェアキッチンや子供たちの民間学童も展開。広がりを見せています。
スポーツクラブの後に隣にコーヒー一杯飲める場所あってもいいよねという話からどんどん広がって、健軍に名物を作りたいと、健軍ポテトを販売したり、シェアキッチンもいろんな方にチャレンジの場として提供したり。
古庄さん以外にも、店舗に入る人たちがいます。商店街に関わりを持ってテナントを出したり、イベントに関わりを持ったり。活動が活発になっています。健軍商店街は令和4年に事業部を設立しました。
古庄さんが入ってきた頃はイベントが年々2、3回だったところから健軍夜市を復活させる流れにつながって今年度は年に20回以上のイベントを開催されます。
健軍夜市が1ヵ月に1回。それ以外に夏祭りだったり、お酒のイベントだったり、子供たちに向けたイベントだったり、毎回ターゲットを絞りながらシーズンイベントを開催します。
『彼らが関わりを持ってから、街の中も活気が出てきたり、夜市に関しては毎回1万人以上のお客さんが来られたり、我々の方が逆にびっくりしているところ。
チャレンジしながらいろんなイベントをやっていただいて、全部が成功とか、失敗とかというのではなくて、きちんと反省しながら次はこういう風にやっていこうと、次につないでいっています。今年は防災に関するイベントもあります。』と井川さんはこの10年の変化を語られました。
健軍夜市のキャッチフレーズは、「世代をこえて おもいでをつなぐ」です。古庄さんは、「あの時のあの盛り上がっていた商店街を取り戻したい」という気持ちが強くなり
商店街に帰ってきました。『思い出が子供たちにないと世代はつながっいかないよなって。まず自分たちが体験したことを今の子供たちにも体験してほしいというところで、
夜市の復活につながった』と話されました。
今年、まちをつくる会社「まちづくりuse」も発足。古庄さんが代表です。
イベントが多くなる中で、これも1つ仕事にしたいということを井川さんにも提案。夜市はまちづくり会社で運営していきます。
『商店街以外に動物園だったり、江津湖だったり、近くに素晴らしい施設がたくさんあるので掛け合わせながら建軍エリアとして活動を広げていきたい』と設立の想いを語られました。
地域が繋がっていくところが見えました!!
こういう会社ができるといいと、昔から思っていたと井川さん。一緒に健軍も大きくできるようになればと期待しています。
熊本地震から10年を改めて振り返った井川さんの言葉です。『ショッキングな一大事ではあったけれど、みんなが商店街を復活させたいと集まってきて、タイミングよくイベントとかを前向きでやってくれる人たちがでてきた。すごく嬉しいこと。良い悪い、色々な話もあるけれど、まずはチャレンジして、そこから反省をしながら、次につないでいくのが一番。
震災でなくなったもの、新たにできているもの、いろいろあります。大事に健軍という街を作っていければ。』
理事長になった井川さんは、これからが明確に見えてきて非常にワクワクしているそうです。
『幼い頃に見ていた盛り上がった商店街になること。いろんな年齢層の方々がお買い物しながら、遊んだり、掛け合いができたり。そんな街に今からどんどんなっていけばいい』と
これからの商店街像を井川さんは描いています。
番組ではこの後、3人の思いなどを語りました。
本田:この番組「FMK熊本復興応援プロジェクト~with~」は熊本地震の2ヶ月後にスタートしました。そしてその後熊本は残念なことに豪雨災害などもあり、そういった災害に関しても復旧復興に携わる人をインタビューしてきたわけですけれども、今日の通常放送で517回を数えました。風戸さんは番組スタート直後からこの番組に携わってくださいましたね。 風戸:あの日から時は止まってないんですよね。思い返すと最初は被害状況を伝えていました。そこから復旧状況を伝え、次に復興していく様子を伝え、現在それをどう次の世代につないでいくのかっていう商店街のお話にもあったように、そういう方向に行っていたり、じゃあ日頃の備えてどうするんだろうということをたくさんの方があちらこちらで活動なさっているその方たちもたくさん増えてきたというその熊本の力強さを日々感じているところです。 本田:そして村岡さんはこの番組に携わったのはね一番最後のメンバーですけれども、「ゆっくりのんびり阿蘇大陸」という番組でずっと阿蘇を取材されていて、今回の阿蘇神社だけでなく傷ついた阿蘇をたくさん見てこられたと思うんですけど。 村岡:そうですね。私が携わって多分3年ぐらいかなと思うんですよね。withに参加させていただいてで、やっぱり阿蘇を中心に周らせていただいてます。「ゆっくりのんびり阿蘇大陸」の番組では紹介できなかったんですね。でも反面苦しかったんです。自分では紹介できなかったので。苦しんでる方々を見てるのでこのwithに参加して改めて取材させていただいて、あーやっぱり皆さんと思いを一緒にできるってありがたいなと思って。 10年経ったっていうこともあるんだと思うんですけれども、話を聞くたびに「それがね、不謹慎なんだけれども、楽しかったんだよ、その時」って言われる方が結構多いんです。 前に進むしかなかったから、地域の方とか会社の方とか、そこで生まれるじゃないですか。避難場所だったりとかそこで生まれる仲間と思いを一緒にして向かう。一緒になって頑張ろうねって言ってるその瞬間が楽しかったって言われるんです。 意外だったんですけど、あーよかったって、あ救われてたんだ。それで私はとってもほっとできた瞬間なんですよね。お話を聞いてて、このwithで改めて阿蘇のまた違った一面を知ることができたんじゃないかなと感謝しています。 本田:よかったです。そしてあの地震当時、私たち自身も被災者でしたね。私は別の番組にゲストで来ていただいたんですが、熊本学園大学に2日ほど避難をさせていただいて、それから自宅に帰って自宅から局に来て、各市町村に電話して、水を何時から何時に配ってるかとか取材して、その情報をスタジオに下ろして、それぞれのパーソナリティさんに読んでもらってっていう震災特番じゃないけど、もう緊急放送みたいな感じをずっとやってたのが忘れられなくって。レコード室は CDが全部散乱してっていう。 そういう中からみんななんとか被災者のために頑張ろうっていう思いで伝えてきたっていうね。あの当時の思いがすごく思い出されます。そしてこの番組に携わるようになっていろんな方がいろんな形で復旧復興に携わってこられたんだなっていうのも今日改めてまたその思いを強くしました。 風戸:ですからラジオにできることなんだろうっていうことで、この番組立ち上がったと思うんですね当時。それで本当に現場に私たちも行っていいのかどうかってすごくためらいながら行くわけですね。でも皆さんの思いを届ける番組っていうことでお伝えしてますけれども、その思いをお話ししてくださって、だからこそ持ち帰ってそれを大切に届けたいと思いましたし、私も当時かなぶんやさんと熊本地震は初めてのレギュラー放送回をレディオバスターズでやった時に、情報係として入りました。 その時に本田さんだったりいろいろな方たちが集めてきた情報を最終ランナー的に流していくとお届けするという役割で、それが本当にこれまでのつながりがあったからこそ、信頼してそれを堂々と私お伝えできたなと思うんですよ。皆さんが皆さんのことを信頼してるから、その方たちが集めた情報をあちゃんと届けなきゃっていう気持ちにもなれて。だからやっぱり日頃のつながりってすごく大事だなっていうことも感じたことを思い出しました。 村岡:繋がりですね。でもやっぱりそうなんだと思います。やっぱり取材してさせていただいた方っていうのは、この地域のつながりがあるからなんだよって言われるんです。で、家族だもんって言われるんです。もうそれが私にとってはなんて素晴らしいんだっていう風に思えるんですよね。 本田:熊本の方たちなんか力強いですね。本当に素晴らしい。そしてそういった災害の時のラジオの強みというか、ありがたさというのをやっていながら感じました。
今日の特別番組では、3人の方へのインタビュー、そして私たち番組担当者のこれまでの歩みや思いをお届けしてきました。それぞれの言葉や想いの中に、あの日から続く時間と、未来へつながる力を感じていただけたのではないでしょうか。復旧、復興の道のりは、今も続いています。これからも私たちは、その声に寄り添いながら、伝え続けていきたいと思います。