アンを探して

今日は、8月21日から公開される「アンを探して」を紹介しました。

女性なら、誰もが一度は手に取ったことのある、

不朽の名作「赤毛のアン」。

この映画「アンを探して」は、その「赤毛のアン」のふるさとである

プリンス・エドワード島を舞台に、ある少女の成長を描いた作品です。

17歳の・杏里は、亡くなった祖母の初恋相手である

カナダ人兵士を探すため、たった1人でプリンス・エドワード島へやってきます。

祖母を亡くした悲しみに、心を閉ざしていた杏里でしたが、

島で暮らす人々との温かい交流を通して、少しずつ癒されていきます。

主演は、「とんねるず」の石橋貴明の娘・穂のか。

監督は、これがデビュー作となる、沖縄出身の女性監督・宮平貴子。

宮平監督は、自主映画を製作していた大学生の時、

クロード・ガニオン監督の撮影アシスタントをつとめ、

2003年にはガニオン監督の助監督を担当。

そのままカナダに渡って経験を重ね、映画監督デビューの道をつかんだ、

ユニークな経歴の持ち主。日本とカナダのクルーが参加した、

国際色豊かなこの作品では、その経験が見事に生かされています。

プリンス・エドワード島の美しい自然と、

ポジティブな「赤毛のアン」のメッセージに、心あたたまる作品。

島を渡る風のような、爽やかな感動を、ぜひ味わってください!

映画「アンを探して」は、

■Denkikanで、8月21日から、2週間限定で公開されます。

「アンを探して」オフィシャルサイト 

http://www.grandjete.jp/lookingforanne/

8月17日(火)魔法のことば

RN「ゼロカロリー」さんが

友人関係に悩んでいた時に出会った「魔法のことば」。

「自分を忘れて相手を心から大事に思う時にしか、

相手の気持ちになることはできない。」

アサヒ鉄工のZUBEさん

今日はアサヒ鉄工のZUBEさんをゲストに迎えました。

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ZUBEさんについて教えて下さい。

上通り、並木坂、上乃裏あたりで主に店舗の装飾をおこなっています。

そこで作品は見て頂けるかなと思います。

高校卒業後、様々な仕事をしていましたが、父が病気になったことをきっかけに

父が営むアサヒ鉄工を引き継ぎ、そんな時にサンワ工務店山野氏と出会い、

商店建築にまつわるようになりました。

その後、装飾金物を生業とし、熊本市内を中心に、福岡、近県など、

二十数年にわたり制作。その間各地にて展覧会を開催。

作品はどんなものを手がけていますか?

自分なりにできるものをと、制作中です。                                                            
                                                              
今は、正直時間がありますので自分にできるものを、作っています。

廃材を使って鉄で溶接します。目の前にある廃材のみを利用して、

何ができるか考えます。

ちなみに今日お持ちのこちらの作品は、

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バイクのマフラーを元に作られたそうです。

装飾1つ1つがすごく遊び心満載です!

目の前にある廃材を大切に使い、そこから生まれる作品のイメージに

従って制作します。こだわりといえば、そこが一番のこだわりです。

素材に関しては、鉄と木がほとんどです。

ちなみに先日小国で作品展をおこなったそうですね?

はい、4箇所で一斉にに開催しました、皆驚くだろうなと思ったら、

その大変さに自分が一番ビックリしましたね(笑)

熊本クレアで開催される「アートスイッチ」にも参加されるそうですね?

2009年8月に産声をあげたアートイベントで、今回で2回目になります。

アートのスイッチをオン!にしようというのが目的です。

今回は、前回の約2倍の11人のアーテイストによる大規模な公開制作や、

ワークショップを行います(1日)。

29日には、巨大壁画の完成イベント、ワークショップが行われます。

以前この番組にも出演された櫻井栄一さんや西田美紀さん、

モヒカンポシェットや森口慶一さんなども参加されますよ!

この他にも様々な活動を予定されているZUBEさん、

その活動内容など詳しくは、こちらをご覧下さい。

http://asahizube.exblog.jp/ 

8月17日(火)のマツザキ・レコードは

今日は、

ザ・ラブ・スティーレス / ピーチズ&ハーブ

を紹介しました。

8月16日(月)魔法のことば

RN「宝探し中」さんがaikoの歌の中で出会った「魔法のことば」。

「生きてく為に泣くこともある それがあたしを強くするならば

これも一番の幸せなんです」

ビーチ・ハンドボール

今日はビーチハンドボールを紹介しました。

6月にトルコで行われた第4回ビーチハンドボール世界選手権で

日本代表としてプレーされたオムロンハンドボール部の

(左から)山中絵里奈選手

(左から2番目)高田裕梨選手

(右から2番目)マツザキヒロユキ選手…?

(右)永田しおり選手、の3人が来て下さいました。

Photo

ビーチハンドボールに関する素朴な疑問を伺いました。

ユニフォームやシューズなどの服装は?

ビーチバレーを想像してもらうといいと思うんですが、

ビキニを着ます(様々な規定があります)、

シューズはないので裸足で行います。

試合の人数やコートの広さなどは?

1試合に8名登録でき、コートの中にはGK1人プレイヤー3人計4人がいます。

広さは、縦27m・横12m、普段のハンドボールのコートより小さいです。

選手交代に関しては、ビーチハンドボールに関しては、

対戦相手がコートを挟んで正面から向かい、

その場所からどんどん選手が交代します。

動画を見たところ、GKが外に出るような動きをしていたんですが?

守備のキーパーと攻撃のキーパーがいるので、

シーンに合わせて、GKも入れ替わります。

得点に関しても特殊なルールがあるそうですね?

プレイヤーが、空中で360度回転しながらうつシュートが決まると2点、

スカイプレイによるシュートが決まればそれも2点、

また、GKが打つシュートはすべて2点になります。

ドリブルはどのようにするのでしょうか?

ドリブルのようなプレイは砂の上に一度ボールを置いて

それをまた持つという形で行います。

世界大会でのエピソードなどありますか?

1試合目のデンマーク戦でデンマークと試合をしました。

この大会で結果的にデンマークは準優勝したチームだったんですが、

最初の試合でそのチームに勝ったことは奇跡的とでもいいましょうか。

また、6月の大会ですので、その夜にはサッカーのワールドカップでも

日本対デンマーク戦が行われました。

自分達が先にデンマーク相手に勝っておこう!という意気込みでした。

ちなみにその夜のワールドカップの試合はデンマークの選手と

一緒に見たんですよ!

ビーチハンドボールについてどのように感じていますか?

山中選手「屋外でやることがまず違いますし、砂地なので足がとられますし、

最初は思うように動けませんでしたね。」

高田選手「前半10分後半10分と試合時間は短いんですが、

直射日光でフラフラになります。」

永田選手「室内と違う部分がまた楽しいですね。

見てる方も楽しいし、やる方も楽しいです。」

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8月28日、29日には神戸で

第12回全日本ビーチハンドボール選手権大会が予定されています。

ハンドボールとは違った魅力のあるビーチハンドボールもぜひ

注目していただきたいと思います。

また9月4日(土)には日本ハンドボールリーグのレギュラーシーズンも開幕。

この日は山鹿市総合体育館でも男女1試合ずつ2試合が行われます。

女子はオムロン対ソニーセミコンダクタ九州

男子はトヨタ紡績九州対琉球コラソン

~~~~~プレゼントのお知らせ~~~~~

この試合のチケットをペアでプレゼントします。

ご希望の方は住所、名前、電話番号を書いて、ご応募ください。

メール glory@fmkumamoto.jp   ファックス 096-355-5200

8月18日(水)必着です。

応募者多数の場合は抽選のうえ、

当選者は8月19日(木)の番組内で発表します。

U900

今日は暑い夏にぴったりの涼しげなウクレレ・ユニットを紹介しました。

このユニットのメンバー、果たして2人と言っていいのかどうか、

実は黒いウサギとオレンジ色のクマという2匹のあみぐるみ

によるユニットなんです。

ウサギの方はその名も兎野U(うさぎのウー)、

そしてクマの方は熊野900(くまのクレレ)といいます。

この2匹からなるユニット、それぞれの名前からとった

アルファベットのUと数字の900をあわせたユニット名になっているのですが、

ウクレレ・ユニットですので「U900」で「ウクレレ」と読ませるのかと思いきや、

読み方はそのまま「ユーキューヒャク」といいます。

このユーキューヒャクの先月ビートルズのカバーアルバム

「ウクレレ・ミステリー・ツアー」がリリースされています。

このアルバムには特典でDVDが付いていて、

これがなかなか楽しめるんです。

ビートルズのカバーアルバムということで、ビートルズゆかりの地、

あの横断歩道に、あのスタジオ、あのライブハウスに、あのビルなどを巡り、

ウサギとクマが楽器を演奏し、歌う姿が収録されています。

しかもウクレレ・ユニットといいつつ、ビデオの中では

クマはベースを弾いているのですが、手にしているのは

ポール・マッカートニーと同じく左利き用のベースという、

思わずにやりとするような細かいしかけがあります。

このアルバム、基本的には英語で歌ったビートルズのカバーアルバムですが、

そんな中から今日は英語で歌いつつ日本語でいろいろ言っている、

アルバムの中でも最も力の抜けた1曲「イエロー・サブマリン」をお届けしました。

8月12日(木)魔法のことば

RN「いりこ」さんがマンガ「BECK」の中で出会った「魔法のことば」。

「下に行ったことのないものは上にはいけない。

右に行ったことのないものは左にはいけない。

絶望を味わったことのないものには

本当に大事なものは分からない。」

「マジックインキ」のヒミツ

今日は「マジックインキ」の名前の由来に迫りました。

ご出演は、寺西化学工業株式会社の今井孝さんです。

~~~~~~~寺西化学工業株式会社 会社概要~~~~~~~

創業は1916年(大正5年)。筆記具用のインキやクレヨン、朱液、

スタンプ台などの製造販売を始めた。

第二次世界大戦で全設備・資材を消失したが、翌年には創業を再開。

その後、描画材「ギターパス」や「ギターペイント」を発売する。

1953年、日本で初めての油性マーカー「マジックインキ」を発売。

以来、製品ラインアップを増やして、様々な分野や用途で、

長きに渡って使用されている。

今後は、エコを考え、安全性とさらなる品質の向上を目指しています。

「マジックインキ」の名前の由来を教えて下さい。

発売当時、日本の筆記具は、紙に書く万年筆や鉛筆、つけペンが主流。

水性インキでは書けなかった金属やプラスチック、ガラスなどに書け、

水に流れず、こすっても消えない筆記具は存在しませんでした。

画期的な油性マーカーの開発に成功し、その最大の特徴を印象づけるため、

商品名を「魔法のインキ」、「マジックインキ」というネーミングにしました。

そして「どんなものにも書ける魔法のインキ」を宣伝文句に、

その不思議さや驚きを「?」マークで表現しています。

また「次代の主力筆記具になる」という、確信と情熱が込められています。

発売当時はマジックインキのような筆記具はなかったそうですが、

開発のきっかけを教えて下さい。

1951年(昭和26年)、当時の株式会社内田洋行の

社長・内田憲民氏が、米国視察から持ち帰った米国の

スピードドライ社の油性マーカーを寺西化学工業の寺西長一社長が、

見本市会場で見て、新製品開発に意欲を燃やし、

共同で研究開発しようともちかけました。

インキ成分やペン先、構造などで二年を費やして開発し、

2年後の1953年4月に発売された。

内田洋行が、「マジック・マジックインキ」を商標登録し、

製造を寺西化学工業が担い、ともに販売を行いました。

開発に関してのエピソードはありますか?

開発当初は、まだ終戦後5年しか経っておらず物資の少ない時代で、

ようやく発売にこぎつけたのですが、販売状況は非常に厳しいものでした。

当時はまったく売れなかったそうですね、なぜだったんでしょうか?

理由は、まず価格。大卒の初任給が約8,700円、

ハガキ一枚5円だった時代に、1本80円(現在の約1,600~1,800円くらい)。

また、日本に今までになかった商品ということで需要自体が未開なものでした。

2度の値下げで1本50円にして、普及し始めていた

テレビのニュース番組のフリップを使った解説などに使用され、

徐々に浸透していきました。

そこからは順調だったんですか?

売れ始めると、色々な問題が。

当時は「キャップを締める習慣」がなかったため、

「ペン先が乾いて描けなくなった」などのクレームが殺到。

商品に説明書をつけることで対処したのですが、

使用後にキャップを締めるという習慣を

啓発するのにもかなり時間がかかりました。

需要は家庭や学校、事務以外に工業分野まで広がっていきます。

製品もさまざな進化をとげ、ラインナップも充実していきます。

オススメの商品を教えて下さい。

筆記具の可能性を求め、新たな着眼点で開発したのが、

昨年、2009年10月に発売させていただいた「ペイントドット」という製品です。

【paintdots(ペイントドット)】とは、黒地に白いドット模様を

付属の水性顔料マーカー「アクアテック」で塗りつぶすと、

世界でひとつだけのデザインが作れる、テキスタイル製品です。

帆布生地にデザインされたドットはイカの表皮がモチーフ。

イカは色素細胞を巧みに拡縮させ、体表の色や柄を変えて、

敵から身を守ったり仲間にシグナルを送ったりしています。

「paintdots」はドットを〈アクアテック〉で塗りつぶすことで、

自分だけのシグナルを表現でき、

人と人とのコミュニケーションをデザインします。

コンセプト&デザインは、いきものをモチーフにした製品を

展開するレーベル「seto」が担当しています。

また、下絵を簡単に作成できるシミュレーターも公式HP内に開設していて、

お好きな画像を取り込んで、ドット絵に変換が可能です。

さらに、絵型やスタンプといった補助ツールも充実しています。

オリジナルの下絵を簡単に作成でき、自由に編集できるので、

絵の苦手な人でも安心して楽しんでいただけます。

テキスタイル製品にマーカーでドットを塗っていくというアナログな行為を、

デジタルでフォローするということは、

製品自体の面白さを伝える事から考えても、むしろ現代的と考えました。

詳しくは寺西化学工業WEBサイト〈ペイントドット〉で検索してください。

http://www.guitar-mg.co.jp/paintdots/index.html

8/12「スペクター・サウンド」

夏休み特別企画“生まれる前の音楽を聴いてみよう”

2回目の今日はスペクター・サウンドを紹介しました。

先週のモータウンはレコード会社の名前でしたが、

今回のは人の名前で天才プロデューサー、

フィル・スペクターの作り出した革命的な音楽のことです。

何が革命的だったのかと言えば、楽曲や演奏ではなく“音”そのもの。

文学の世界では、“何を書いたか”と“いかに書いたか”は、

どちらがより賞讃されるべきか?という議論がしばしば起こりますが、

これを音楽に置き換えると、フィル・スペクターという人は

“何を歌うか”にも“いかに演奏するか”にもまったく興味はなく、

“いかに録音するか”の一点にのみ命をかけたと言ってもいいでしょう。

1960年代初頭までのポップスのレコードの音はスカスカで薄っぺらで

貧弱で安っぽいものと相場が決まっていました。

これに我慢ならなかった彼は、自分の頭の中に鳴り響く重厚で

ゴージャスなサウンドをレコード盤に刻み込むために

ありとあらゆる試行錯誤を繰り返します。

こうして完成したのが、ポップス史上に輝く、“ウォール・オブ・サウンド”と

呼ばれる文字通り音の壁でした。

それまで誰も聴いたことのない、ブ厚い音の壁でありながら、

それは1枚の硬い壁ではなく、各楽器の音ひとつひとつは

もはや聴き分け不可能なほど混然一体の大きな塊となりつつ、

複雑に絡み合い、溶け合ったような感触の深い響きと前に出る音圧。

“エコー処理と多重ダビングの賜物”と考えられてきたのですが、

それだけでは誰がマネしても再現できないこのサウンド、

実は根本的に演奏する人数が半端じゃなく多いのです。

バンド編成なんてものではなく、20人から30人が

一斉に演奏していることが後の研究でわかっています。

コストと手間と時間がものすごくかかっているわけです。

このサウンドの衝撃はヒットを連発した事実もさることながら、

スペクター信奉者が後を絶たないことからもわかるでしょう。

ビーチ・ボーイズ、スプリングスティーン、大滝詠一、山下達郎など。

ウォール・オブ・サウンドに“やられた”人たちこそが

次の先端を駆け抜けているのです。

実はスペクターの全盛期は1962年から1966年のわずか5年しかありません。

“黒船”ビートルズがアメリカ上陸した1964年以降、

急速にバンド・サウンドのロックン・ロールと“何を歌うか”が

最重要視されるようになった時代の前には音の壁も

なすすべがありませんでした。

しかし、ビートルズもスペクター信奉者だったのです。

彼の偉業と精神は確実に受け継がれて、

21世紀の今日もその遺伝子は息づいています。

今日お届けしたのは、

1963年全米2位の曲ザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」でした。

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