あらゆるジャンルの“注目の人”にインタビューする「ヒューマン・ラボ」。
11月から3ヵ月間、「FMK Morning Glory ヒューマン・ラボ
熊大ラジオ公開授業 知的冒険の旅」と題してお送りしています。
13回目のゲストは、熊本大学 埋蔵文化財調査センターの
山野ケン陽次郎先生です。
先生の専門は「考古学」。琉球の歴史について研究されています。
どんな研究なのか詳しく伺います。
Q①お名前と職業・所属を教えて下さい。
名前:山野ケン陽次郎(やまのけんようじろう)
所属:熊本大学埋蔵文化財調査センター
プロフィール
鹿児島県鹿児島市出身。満31歳。
平成14年3月、鹿児島中央高等学校を卒業。
平成14年4月、鹿児島大学法文学部人文学科に入学。
物質文化研究室で考古学を専攻。
平成19年4月、熊本大学大学院文学研究科に入学、
平成21年3月修士課程を修了。
平成21年4月熊本大学大学院社会文化科学研究科に入学、
平成24年3月博士課程を修了。
平成24年4月から古巣の鹿児島大学法文学部に戻り、
日本学術振興会特別研究員PDとして研究に没頭。
平成25年4月には独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所に
特別研究員として入社。平成25年10月から
熊本大学埋蔵文化財調査センターの助教に就任。
以後、熊本大学構内遺跡の発掘調査とその活用、
研究に日々従事している。専門は先史時代の琉球列島における
貝製品からみた人間諸活動および文化の復元研究。
「ケン陽次郎」というお名前はたいへん珍しいと思いますが、
由来などあるのでしょうか?
私は3人兄弟の末っ子なのですが、一番上の兄は紘太郎という名前です。
彼が小さいころ、母がイギリス旅行に連れて行ったのですが、
海外の方は紘太郎という名前をなかなか呼べなかったそうで、
次に生まれる子供に英語圏の名前を入れることを考えたそうです。
しかし、当時は今と異なり、きらきらネームのようなものはなかったですから、
学校でのいじめも考え、名付けるには勇気が必要だったようです。
すると次の子供はなんと双子で生まれてきたのです。
私と双子の兄です。「双子だったらいじめられても、
なんとか2人で生きていくだろう」という気持ちで「ケン」と名前が付けられました。
ちなみに双子の兄は「ディーン誠次郎」といいます。
子供のころは思いませんでしたが、
今では名前をよく覚えていただけるので大変よい名前だと感じています。
Q②山野先生の専門である「考古学」とは、
どんな研究ですか、わかりやすく教えてください。
私の専門は「考古学」です。遺跡から出土する、
過去の人間の使用した道具や装飾品といった「遺物」、
あるいは住居や墓といった「遺構」を研究対象としており、
これらを用いて過去の人間の諸活動、つまり狩猟や漁労、
食事や物づくりなどの日常的活動から、祭祀(祭り)や埋葬(お葬式)などの
非日常的活動を復元していきます。ここから文字資料のない
時代の人間の生活や社会、文化、交流などを明らかにする試みを行っています。
私のフィールドは日本列島の南端に位置する琉球列島
(大隅諸島から先島諸島)です。この地域では、黒潮(暖流)により
サンゴ礁地形が発達しており、海産資源として大きく美しい巻貝を
大量に得ることができます。琉球列島の島々では先史時代から
この貝を生活のありとあらゆる場面で使用しており、食料としてだけでなく、
皿やナイフ、アクセサリーなど様々なものに加工、
利用されてきました。そのため、過去の人間の生活を知る上で
遺跡から出土する貝の研究は非常に役立ちます。
私はこれまでに、貝製の道具(貝製品)の加工技術や、
貝の種に注目することで、当時のモノの移動や加工技術の
伝播などに言及してきました。特に弥生時代から古墳時代にかけて行われた、
九州以北と琉球列島(鹿児島・沖縄県の島々)における貝を
交易品とした長距離交易についての研究を行っております。
南の島で取れる貝を当時の九州の権力者が入手して
腕輪などに加工、使用していたのです。私は、遺跡から出土する
貝製品の素材となる、貝の種類の同定(どんな貝種か決定すること)を行い、
その貝がある特定の地域でしかとれないことを確認し、
そこからモノやヒトの移動を検証していきます。
遺物を研究することでヒトやモノの移動が見えてくることは大変面白いです。
しかし、この貝の種類の決定が大変なのです。
貝製品は貝を磨いたり、穴あけたりして作られているため、
元々の形状をしていません。そのために南の島々で
標本集めのため貝拾いを行ったり、実際に貝製品を作ったりもします。
南の島のビーチでみなさんが水着で楽しく泳いでいるところに、
貝の入った重い袋を持って何時間も海岸を歩いているおじさんがいたら、
それは十中八九、私です。
Q③山野先生がこの研究に取り組むことになった
「きっかけ」のようなものがあれば教えてください。
私は小学生の時分から、学者になりたいという漠然とした夢がありました。
小学生から中学生にかけては、『インディ・ジョーンズ』や
『世界ふしぎ発見』などに多大な影響を受け、高校生になる頃には
考古学者になりたいと考えるようになりました。
しかし、大学生になり、考古学を学び始めると、実測や測量など、
1㎜の誤差を許さないそのあまりの細かさに辟易してしまいました。
しかし、学部3年生のとき、鹿児島県徳之島のトマチン遺跡の
発掘調査に参加する機会を得ました。
遺跡からは縄文時代の終わりから弥生時代の初め頃にかけての
サンゴ石で作られたお墓が見つかりました。
そしてその中からバラバラの人骨と一緒にゴホウラという貝を使った
腕輪やイモガイという貝を使ったビーズ、
さらには翡翠製のアクセサリーが出てきたのです。
私は、この出土した貝製品の見事さに感動し、
誰がどのようにして作ったのか、またどのような過程で
この墓に埋まったのか、想像するだけで楽しくなりました。
また、この時に発掘調査したメンバーは私とほぼ同世代の
沖縄県の考古学徒だったのですが、彼らと1か月半にわたる
発掘調査や共同生活が非常に愉快で、考古学に
どんどん魅了されていったことを覚えています。
この発掘を契機とし、考古学に没頭し、
中でも墓から見つかった貝製品を研究することになりました。
Q④山野先生の研究テーマについて、
これまで「琉球列島」を調査してきて、
具体的にどんなことがわかったのでしょうか?
いくつか具体的に説明をお願いします。
私は以前、鹿児島県の種子島の遺跡を発掘しました。
広田遺跡といって、砂丘の上に弥生時代の終わり頃から
一部古代にかけての150体以上の埋葬人骨が発見された
全国的に著名な遺跡です。この遺跡のすごいところは、
世界でも類をみない、貝製装飾文化をもつことです。
貝製品には竜のような形をしたものや、
古代中国の青銅器にみられる饕餮文(とうてつもん)のような
素晴らしい彫刻文様が施されていました。
定説では、これらは古代中国の文化の伝播によって
現れたと考えられてきました。私は、広田遺跡でこの他に
中国らしき遺物が出土していないことから、中国説に疑問を持ち、
広田遺跡の埋葬の変遷を再検討し、琉球列島の貝製品と
その貝種や製作技術について研究しました。
すると、広田遺跡の貝製装飾文化が、琉球列島に
もともと存在する貝製装飾文化によって説明できることが分かりました。
種子島よりずっと南で取れる貝殻、
そしてこれら貝殻と交易の対価物として持ち込まれた九州からの
鉄器などの製作道具によって説明できることが分かってきました。
竜の形をしたものも、本来は獣の牙の形をした貝製品が
装飾化していったために変化したのだと示し、彫刻文様についても、
饕餮文ではなく、蝶の形を現したものだと考古学的手法を用いて示しました。
Q⑤研究以外での趣味などありますか?
ある時期の趣味は貝殻拾いでした。研究の一環でもありますし、
自分の求めていた貝が見つかると非常に興奮します。
同じ海岸でも、日によってまるで違う貝殻が拾えたりするのが面白いです。
とくに雨が降った跡や台風の翌日などは、
砂が削られて貝殻も砂に映えるので、探しやすくてよいです。
最近は、学生の頃と違って忙しいので行けていません。
近頃の趣味は料理です。得意料理はパスタですが、
日本食も中華料理も他にもいろいろ作ります。
料理は研究とよく似ていると思います。具材をたくさん集めて、
加工して、自分の作りたいものを作ることは、
研究で資料を集めて、分析し、自分の言いたいことを言うことに近いです。
流れよく料理を作れたときは、満足感が高いことも研究に似ていますね。
とくに意味はないのですが、作った料理の写真を撮ったりして楽しんでいます。
Q⑥これまでの活動を通じて、最も印象深いエピソードをお願いします。
私は、熊本大学の埋蔵文化財調査センターで働き始めて
まだ1年と3か月です。しかし、最初に担当した遺跡の発掘調査で
大きな成果を得ることができました。熊本大学の黒髪南キャンパスは
黒髪町遺跡群と呼ばれ、近世(江戸時代)や古代(奈良・平安時代)、
弥生、縄文時代の遺跡が存在します。
今回、近世や古代の土を掘りきったその下から、縄文時代後期
(約4000~3000年前)の土器が大量に出土しました。
さらに、地表下2.2m程のところからは、縄文時代の人骨が見つかりました。
これには大変驚きました。日本列島は火山が多く、
その土壌の多くは酸性土壌です。そのため、人骨は月日が経つと、
消えてなくなってしまいます。縄文時代の人骨は通常、
貝塚や洞穴遺跡といった、特殊な環境下で、カルシウムなどに
保護されて残ることが多いです。しかし、大学は平野部に位置しており、
縄文時代の人骨が残るような環境ではありませんでした。
人骨の専門家の方からも奇跡的に残ったといわれています。
では、なぜ残ったのか、土のph値を調べて確認しました。
すると、縄文人骨が出てきた土は、酸性ではなく、中性だったのです。
縄文人骨の真上には白川の水性作用に由来すると思われる
硬質の砂層が70~80㎝堆積していました。
この層より上は酸性の値を示しており、硬質の砂層の影響により、さ
らに下の土が中性に保たれ、人骨が残ったのではないかと考えています。
人骨は、2.5×4.5m程の範囲に3体見つかっており、
うち2体を発掘調査しました。縄文人骨のうち1体は
まだ大学内に眠っています。
また、周りを調査するとさらにお墓が発見されるかもしれません。
Q⑦今後の活動予定やPRしたいことなどあれば教えてください。
熊本大学の構内遺跡は、1993年より、
熊本大学埋蔵文化財調査室によって、私の諸先輩方が
発掘調査を担当されてきました。その間、縄文時代から近代までの
各時期の時代の遺物や遺構が見つかっており、成果を得ています。
これら遺跡の調査成果を発掘調査報告書という形で公表してきましたが、
これは専門家向けであり、一般の方々にはその調査成果が
しっかりとアピールできているとはいいがたいです。
大学の地下に過去の興味深い世界が広がっていることを
ごく一部の専門家が共有しているだけというのは大変もったいないことです。
これからは、発掘調査をしっかりと行うだけでなく、
大学内外にその成果を公表し、地域の方々に還元していきたいと思います。
埋蔵文化財調査センターでは、2013年の11月から展示室を設け、
大学内から出土した遺物を展示し、各時代の説明を行っております。
そして、先ほどご紹介した縄文人骨も、
その一部を期間限定で特別に展示しております。
明日(1月27日)にも午前10時から30分ほどの短い時間ですが、
縄文人骨も含めた展示の説明会を行う予定でおります。
ぜひ皆様にも足を運んでいただき、大学に眠る過去の世界について、
その知識を共有できればと考えています。
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