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マツザキ・レコード

7月7日(火)のマツザキ・レコードは

今日は、

ラブ・ハングオーバー / ダイアナ・ロス を紹介しました。

亡きマイケル・ジャクソンが後見人に指名したと言われている彼女。

ダイアナ・ロスは、1944年3月26日、

ミシガン州のデトロイトに生まれました。

小さな頃から活動的で、昼は高校でデザインを学び、 夜はバイト、

そしてその稼ぎで週末には、

モデル養成学校と美容教室にかようというほどでした。

スターになりたいという強い夢を持つ彼女は、

スモーキー・ロビンソンに無理やりオーディションしてもらい、

プロの音楽の世界へ進みます。流石にしばらくは

下積み時代を過ごしますが、転機が訪れます。

ブライアン・ホランド、エディー・ホランド、ラモン・ドジャーからなる作曲、

プロデューサー・チーム、H-D-Hが、1964年から彼女のいるグループ、

スプリームスに曲を提供するようになり、

いっきに風向きは変わり始めました。

なんと、5つのシングルが立て続けに全米ポップ・チャートの

ナンバー1に輝くという 未だかつてない快挙を成し遂げたのです。

こうして、彼女たちは、1965年、1966年、 1967年の3年間だけで、

なんと10曲の全米ナンバー1を放つのです!

1967年、グループの名前は、ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスと

改められます。 この頃、ジャクソン5に出会っています。

ダイアナは、自分が主役であることにこだわり、

他のメンバーとの関係は一気に悪化して行き、 ついには独立します。

彼女がソロになった少し後に、マイケルもソロデビューします。

この頃マイケルは13歳。ダイアナ・ロスからももちろん

アドバイスがあったでしょうね。

そこからの永くて強いつながりが二人にはあると言われておりますが、

二人とも周りには理解されにくいほどの個性と才能を持ってますから、

合い通じるところが あったんでしょうね。

6月30日(火)マツザキ・レコードは

今日は、

オン・ザ・レディオ / ドナ・サマーを紹介しました。

1948年12月31日にボストンで生まれた彼女。

「クロウ」というローカル・グループを経てミュージカルへ。

その後ドイツに移住してシンガーとなり、

その後「Love  to love you baby」という曲がアメリカでも評価を受け、

一躍スターダムにのし上がります。

ドナ・サマーは決して器用なヴォーカリストではなかったのですが、

彼女のバックで演奏するプロデューサー・ティーム、

ジョルジオ・モルダー&ピート・ベロッテが作り出すサウンドとあいまって

魅力的な楽曲となります。

「愛の誘惑」や「恋はマジック」などといったナンバーは、

リリースと同時にディスコフロアで人気となりました。

その後も彼女は「マッカーサー・パーク」「ホット・スタッフ」「バッド・ガール」など

好シングルをリリースし、セールス的にも大成功を収めました。

6月23日(水)のマツザキ・レコードは

今日は、

Dancin' / クラウン・ハイツ・アフェアを紹介しました。

彼らは、男性8人編成のディスコグループ、

名前は「クラウンハイツ」というNYブルックリン地区にある地名から

取っていて、B.T.エクスプレスと並んで、

70年代の初期ニューヨーク・ディスコの代表格です。

このグループは1960年代後半、ブルックリン地区のバンド仲間らで

結成された「ニュー・デイ・エクスプレス」というグループがルーツ、

その後「クラウン・ハイツ・アフェア」に改名して、74年にRCAレーベルから

デビューを果たしますが、これはあまりうまくゆかず、

75年にDe-Liteレーベルに移ります。

De-Liteはインディー系ですが、有名なクール・アンド・ザ・ギャングが

看板バンドとして活躍していたレーベルなんです。

ここで初めて、“クラウン”たちも本格的なアルバムを立て続けに発表し、

ディスコ系の大ヒット曲を出すようになりました。

その洗練された音作りは、今聞いても十分楽しめますよ!

6月16日(火)のマツザキ・レコードは

今日は、

ギブ・イット・アップ / K.C.&The Sunshine Bandを紹介しました。

ハリー・ウエイン・ケーシー(KC)率いる

K.C. & The Sunshine Bandは1973年結成。

レーベルはマイアミディスコの総本山TKレコードです。

ファーストアルバムはふるいませんでしたが、

75年発売のセカンドアルバムではいよいよブレーク。

シングルカットされた 「ゲット・ダウン・トゥナイト」とディスコでは

伝説的な曲「ザッツ・ザ・ウェイ」がそれぞれビルボードの

ポップチャートとR&Bチャートで堂々1位を獲得しています。

続く76年に発売された3作目「パート3」でも、「シェイク・ユア・ブーティ」や

「キープ・イット・カミング・ラブ」などのヒットを飛ばします。

この人たちの曲調は「明るいラテン&南国調」。

それにモータウン伝統のダンス・ソウルサウンドが絡んだ感じですね。

生音中心で、過去のライブ映像を観ると実に楽しそうに歌い、演奏しています。

個人的に好きなのは「ギブ・イット・アップ」(83年)。

このあたりになるとシンセサイザーを駆使しており、

従来のマイアミサウンドを踏襲しつつも、メリハリが利いた良質な

ダンスサウンドに仕上がっています。ディスコでもバリバリかかっていました。

時代の流れか、本国アメリカで「脳天気系おバカディスコ」が

受けいれられなくなっていき、 彼らの時代は終わりを迎えます。

とはいえ、初期ディスコの立役者であることは間違いないでしょう。

6月9日(火)のマツザキ・レコードは

今日は、

ゲット・ダウン・オン・イット / クール&ザ・ギャング を紹介しました。

60年代のスライ・ストーンのファンク・グルーブと、

ジェームス・ブラウンのディープなソウル感に 影響を受けたと言われる、

70年代のソウル・ファンクバンド達。

クール&ザ・ギャングは、その中でも多数のヒット曲を生み出し、

長くファンクのトップミュージシャン として君臨しています。

60年代から活躍しますが、70年に入ってその頭角を現し、

「ジャングル・ブーギー」 「ハリウッド・スウィンギング」「ハイヤー・プレーン」

「スピリット・オブ・ザ・ブギー」などのヒット曲を 次々とリリースします。

その後、70年代前半にスランプが訪れましたが、

映画「サタデーナイト・フィーバー」でも使われた「オープン・セサミ」(76年)の

ヒットで復活を果たします。

このときが、ちょうど彼らの「ディスコ・ デビュー」でもあったといえます。

このあたりから俄然、彼らは調子を上げていきます。

さらに79年、学校の先生をやっていた「ジェームス・JT・テーラー」が

メーンボーカルとして加わり、 「レディースナイト」を大ヒットさせます。

ジャズテイストはぐっと薄くなり、明るいポップなブラコン路線を

歩むようになります。これが大当たりしまして、80年代に入ってからは、

休む間もないほど ヒット曲を連発するわけですね。

当然、ディスコ界でも、無くてはならないミュージシャンとして

その名を知らしめていますよね。

いや~ホント、いつ聞いても楽しめます。

6月2日(火)のマツザキ・レコードは

今日は、

エブリバディ・ハブ・ファン・トゥナイト / ワン・チャン を紹介しました。

ロンドンを拠点とするニューウェーブグループのワン・チャンなんですが、

もともとのグループ名を「ホワン・チャン」だったそうです。

メンバーはヴォーカル&ギターのジャック、ベーシストのニック、

ドラムのダーレンの3人です。

1980年に最初のシングルをリリース、

1982年にファーストアルバムを発表しますが、その後バンド名を

ワン・チャンに改名します。

音楽的にもエレクトロ・ポップ路線に変更したようです。

1986年発表のアルバム「モザイク」が大ヒットして、

その中から全米No.1が生まれます。

全米No.1となった「エブリバディ・ハブ・ファン・トゥナイト」は、

ロック調でありながらも飛び跳ねたくなるほどのノリノリ・サウンド。

ディスコでも大流行しました♪

5月26日(火)マツザキ・レコードは

今日は、

110番街交差点 / ボビー・ウーマック を紹介しました。

ボビー・ウーマックはアメリカはオハイオ出身。

1944年生まれ。

10代の頃、兄弟でウーマック・ブラザーズと言う、

ゴスペルグループで活動している所を サム・クックに認められ、

1961年、17歳の時にデビューします。

早くからその才能を認められますが、サム・クック、レイ・チャールズ、

アレサ・フランクリン、スライ・ストーン、等など

有名スターのセッション・ギタリストとして活躍していきます。

ソロとしても数多くのヒットを出していますが、

作曲家としてローリング・ストーンズに 提供した

「イッツ・オール・オーヴァー」のヒットなど、ソウルシンガーとしてだけではなく、

非常に幅広い活躍をしています。

サザンソウル丸出しのヴォーカル、卓越したギターテクニック、

誰が呼んだかニックネームは「ラスト・ソウル・マン」。

いまだ現役と言いますから、まさしく最後のソウルマンかもしれませんね。

今日お届けした”110番街交差点”は1972年、

映画「110番街交差点」のサウンドトラックとして制作し、

彼が歌も担当します。

この曲は1997年タランティーノの映画「ジャッキー・ブラウン」でも

主題歌となりましたので、記憶にある方も多いでしょう。

ちなみに映画は2作品ともDVDで見ることが出来ますよ♪

5月19日(火)のマツザキ・レコードは

今日は、

ブロークン・ロード / オデッセイ

を紹介しました。

オデッセイと言っても、ヒット曲「ネイティブ・ニューヨーカー」や、

以前紹介した「ゴーイング・バック・トゥ・マイ・ルーツ」などで有名になり、

ディスコで大ヒットしたオデッセイではなく、

同じ名前の別のグループです。

フリーソウル好きの間では知る人ぞ知るグループでして、

コンピレーション・アルバムではよく聞いている方もいるかもしれませんね。

オデッセイは黒人2人、白人5人の混成バンドです。

1972年にモータウンから、今回紹介する唯一のアルバム「Odyssey」を

発表しています。

モータウンの中でもフォークロック的なアーティストを多く輩出している、

モーウエストレーベルらしく、彼らもロックやフォーク、カントリーなど

バラエティに富んだ音楽性をもっています。

そんな中から今日はラテンムードの中に漂うソウル感、

そして踊るように奏でるフルートが粋な曲をお届けしました。

5月12日(火)のマツザキ・レコードは

今日は、

ベイビー・カム・バック / プレイヤー

を紹介しました。

J.C.クロウリーとピーター・ベケットの2人を中心に

結成されたバンド「プレイヤー」。

プレイヤーといいますと、なんと言ってもデビュー曲にして

78年1月に全米3週連続1位 という大ヒットとなった

「ベイビー・カム・バック」が有名ですよね。

メロウで切なげな、泣きのギターが印象的な名曲です。

今となってはスティーリー・ダンやホール&オーツと共に

AOR界で語られるような存在となっています。

その後、4枚ほどアルバムをリリースしまして、サザンロックから、

JAZZ・ファンクと、様々な要素を取り入れ幅広い大人のロック「AOR]を

展開してます。ですが、大ヒットとはなかなかいかなかったようです。

今日お届けする「ベイビー・カム・バック」は、

当時のディスコ全盛時代において、

清涼剤のようなさわやかさを持ちつつも、チークタイムの曲としておなじみでした。

5月5日のマツザキ・レコードは

今日は、

That's How Strong My Love Is / Otis Redding

を紹介しました。

彼は、42年前の1967年12月に、ツアー移動中に自家用機の事故で、

しかも26歳という若さでこの世を後にしました。

ソウルの礎を築いた天才と言われています。

それまでとはまったく違う、パンチの効いた歌い方、

「ソウルフル」という言葉は彼から 始まった・・・、

と言うより彼そのものではないかと思います。

日本では、残念ながら先日なくなった忌野清志郎が、

最も影響を受けたアーティスト としていますね。

実際、「オーティスが教えてくれた」という、オーティスから

彼が教えられたことを 歌詞にした、そんな歌も出しています。

自分のメッセージをそのまま歌にのせて、心のままに歌う・・・

シンプルだけど、まっすぐな歌は、国も言葉も関係なく、心に響きますよね

そのスタイルは遠い日本で、清志郎が体現してくれていたような、

そんな気がします。

あの世でこの二人がセッションしてる姿を思い浮かべながら、

聞いてみて下さい。

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