« 旅するこころ | メインページ | アーカイブ | スタッフからのメッセージ »

名盤 IN A DAY

2月7日(木)の名盤は…

今日は、アメリカの新人歌手オーディション番組で、

審査員としても見かける、ある女性アーティストを紹介しました。

エントリーしている素人さんたちが歌っている間、

ずっとノリノリで踊っていたくせに、感想を求められると

「予選の時からあなたのファンだけど、今日の歌は最低だったわ」

などと言い放つ、やけに辛口で踊りが上手くて思わず目をひくこの人、

「ポーラ・アブドゥル」です。

ロサンゼルス出身の彼女は子どもの頃からダンスが得意で、

18才で地元のNBA名門チーム、レイカーズのチアガールへ入団。

半年後には最年少にして振り付け担当に昇格する天才でした。

ある日、試合を観戦していたジャクソンズに認められ、

「僕たちの新曲の振り付けをお願いします。」と頼まれます。

「バックで踊ってくれ」ではなく、

「ダンスを考えて、そして教えてくれ」と言ったんです。

彼女はフランス、カナダ、ブラジルなどのルーツを持っていますが、

ブラックではありません。

それがブラックの、しかもダンスが売りのジャクソン兄弟から

頭を下げられたのだから、快挙でしょう。

これを機にプロの振り付け師となった彼女の名前を一躍有名にしたのは、

ジャクソンズの妹であるジャネット・ジャクソンの一連のヒット曲でした。

あのジャネットのダンスの先生というだけでもすごいのに、歌も上手いという、

天は二物を与えたのです。・・・という訳で、即、歌手デビュー。

1988年から92年にかけて6曲の全米No.1ヒットを獲得しました。

ポーラ・アブドゥルの凄さ、お分かりいただけたでしょうか?

これだけの実績のある人なので、

オーディション番組で辛口審査だったとしても文句は言えませんよね。

20年経っても由美かおる並に体型も変わらず、さらにダンスも上手い。

ホントに凄い人ですね…

1月31日(木)の名盤は…

今日は1970年代にヒットを連発し、ロックの殿堂入りを果たしている

アメリカの大御所、スティーリー・ダンを紹介します。

このバンド、というかユニット、はっきり言ってクレイジーなんです。

デビュー当時はジャズっぽい味付けが個性的ではあったものの、

普通のバンドでしたが、リーダーのドナルド・フェイゲンは大変気難しく、

次々にメンバーのクビを切り、1976年頃には彼とウォルター・ベッカーの

2人だけになります。ここからやりたい放題が始まりました。

例えば、「ここに誰々風のギターが欲しいなー」と考えた時、

普通ならその誰々さんと同じ楽器を調達して、

特徴をマネて似た音を作り出すのがそれまでの方法でしたが、

彼らは「面倒臭いから本人に弾いてもらおうぜ。

どうせ俺達2人しかいないし、金ならあるし」というまさに目からウロコの

方法論革命で、数十名もの超一流達を迎えて制作したのが、

1977年のアルバム「エイジャ」でした。

思うに、これって現在のサンプリングの手法と非常に近いですね。

言っておきますが、Hip Hop誕生以前の話ですよ。

さすがにこれは完成度が高く、ロックの金字塔と呼ばれる名盤ですが、

その裏では、ある大物に何十回も同じフレーズを引かせた挙句に

採用せず、激怒させたとか、一人でも高額なギャラの一流ミュージシャンを

10人ほど呼んで、たった数小節のソロを弾かせ、結局その当時キャリア的に

最も格下だった人のテイクに決定したとか、

鬼のような逸話が山ほどあります。

そして、この手法をさらに徹底したのが、1980年の「ガウチョ」です。

前作は完璧でしたが、こちらは過剰に完璧。

息苦しいほどの極度の緊張を聴き手に迫ります。

極度の完ぺき主義者の狂気、金を湯水の如くつかう狂気、

そしてボツにされた大物たちの怨念(笑)・・・と、

ある意味、「暴力よりもこわい恐怖が、ぱっと聴いた感じでは、

爽やかでオシャレなサウンドの奥に透けて見える。」

そんな完全に“イってしまった”名盤がこれです。

1月24日(木)の名盤は…

今日は1980年代後期から90年代にかけて、たくさんのヒットを生み出し、

現在ももちろん第一線で活躍する女性シンガー・ソングライター、

スザンヌ・ヴェガをご紹介しましょう。

彼女がメジャー・デビューした1985年頃というのは、

パンクから派生したニュー・ウェイヴ全盛期で、

1970年代に大流行したシンガー・ソングライターにとっては、

居心地のいいものではありませんでした。

マドンナやシンディ・ローパーなどは、自作自演という意味では

立派にシンガー・ソングライターな訳ですが、

彼女たちは、もっと広いいみでのポップ・スターという呼称がぴったりですし、

ここでは弾き語りに近いシンプルなサウンドで、

温かみのある歌を聴かせるスタイルのことを指しています。

ニュー・ウェイヴの時代に、そういったスタイルは、

確かに古臭く感じられたのは事実で、それ以上に70年代からの

生き残り組のシンガー・ソングライター達が、変に時代を意識して

エレクトロニクスを取り入れた作品の多くが、ダサく感じられたのが、

自分で自分の首をしめているようでした。

そんな時代に現れたスザンヌ・ヴェガは、

60年代フォークから70年代シンガー・ソングライターの

古き良き音楽の伝統をしっかり感じさせながらも、

自然体で確実に新しい世代を感じさせてくれたのです。

ニュー・ウェイヴを自然に経過したシンガー・ソングライターサウンド。

言葉にすればそれだけですが、これは70年代組には

絶対に作ることができない音楽だったのです。

彼女が80年代シンガー・ソングライター不毛の時代を、

ほぼ一人で埋めてくれなかったら、90年代のアラニス・モリセットも、

シェリル・クロウもフィオナ・アップルも、

今のようなスタイルで登場することはなかったかもしれません。

今日紹介した「ルカ」という曲は、彼女を一躍知らしめた1987年の大ヒット。

実は幼児虐待を歌ったシリアスなナンバーだという事も覚えておいて下さい。

1月17日(木)の名盤は…

13年前の今日、1月17日、阪神・淡路大震災が起こりました。

今日は、当時被災地で生まれた

「満月の夕(ゆうべ)」という歌を紹介しました。

大阪在住のロック・バンド、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬は当時、

すぐにメンバーを連れて神戸へ行き、ボランティア作業をする傍ら、

「歌でメシを食っている人間として、皆さんに娯楽を提供せねば」と、

避難所でライブを始めました。

そんなある日、盟友とも言えるヒートウェイヴの山口洋を

東京から連れてきます。悲惨な光景の中で、それでも復興に向けて

たくましく生きる人々に言葉を失った山口さんは、

中川さんと共に曲を書き始めましたが、途中まで出来たところで

一時帰京した山口さんのもとに中川さんから

「あの歌、もう完成して歌いよるで」と連絡が入ります。

被災者との生の交流の中で生まれたこの歌こそ「満月の夕」の原曲でした。

自身が起きた日も満月、被災者と共に焚き火を囲んで歌ったのも満月。

そんな複雑な思いを抱きながらながめる月に、

再生への希望を込めたこの歌には、

被災地ならではの生々しい特徴がありました。

まず、電気が復旧していないので、三線に和太鼓、アコーディオンといった、

電気なしで一番大きな音を出せるチンドン屋の編成で演奏すること。

そして、一番の生活弱者であるお年寄りに親しみやすく、

踊りやすい(とにかく寒いので、踊らせて暖をとる必要があったのです)

民謡/邦楽調であることです。

さて、この歌を聴いたヒートウェイヴの山口さんは、

「被災地と密に交流していない自分に、この歌を歌うことはできない」と、

震災をテレビで見つめることしかなかった立場からの視点で、

歌詞をほぼ全面的に書き変え、電機も普通に使える立場から、

自分達流のロック・アレンジで歌いました。

ここにメロディだけが同じで、まったく異なる

2つの「満月の夕」という歌が誕生したのです。

中川さんのバージョンが“当事者による復興の応援歌”で、

山口さんのバージョンは“遠くからの祈りの歌”と言えるかもしれません。

同じ日に発売されたこの2曲でしたが、さっぱり売れませんでした。

というのも、最もこの歌を必要とする被災者達は、

CDを買う余裕なんてあるはずもなかったのです。

でも、この年だけで70回以上行われた避難所ライヴのおかげで、

被災者のみならず、神戸全域で誰もが知っているほど浸透したのでした。

それから1年ほどたった時、中川さんの友人が神戸を歩いていると、

子どもがこの歌を歌いながら、「おっちゃん、この歌知ってる?

これなぁ、俺らの歌やねん」と言ったそうです。

それだけではありません。多くの歌手がこの歌をカバーしています。

その中にはメンバー全員被災者で、当時中学生で避難所ライブを

観ていたガガガSPもいます。さらに、中越で、釧路で、宮城で、能登で、

あるいは9.11やアフガン、東ティモールで、

天災や戦災が起こる度に「満月の夕」が歌われるようにさえなりました。

阪神大震災で生まれた歌が、いまや全ての焼け跡から再生するための

希望の歌として歌い継がれています。

1月10日(木)の名盤は…

今日は1980年代中期から後期に大ブームとなった、

ブリティッシュ・ホワイト・ソウルについて紹介しました。

これは、本来アメリカの黒人のものであるソウル・ミュージックの要素を

大胆に取り入れたイギリス白人による音楽です。

まぁ、もともと白人ロックは黒人音楽の影響を受け続けて進化してきた

歴史がありますが、この時代の動きは「影響を受けた」という程度ではなく、

ある意味で模倣とも言えるぐらい、そのまんまストレートにソウル音楽へ

アプローチしたものが一気に登場し、それぞれにヒットしたのです。

それはなぜか?と言うと…

イギリスでは1970年代末にパンクの嵐が巻き起こり、

続くニュー・ウェイヴの波が、1980年代前半まで続きます。

これらは暴力的だったり、無機質で冷たかったり、混沌としていたり、

あまり明るいものではありませんでした。

5年以上続いた、そういった音楽シーンに疲れた人たちが、

ソウル・ミュージックのぬくもりや、ポジティヴさに癒しを求めた、

というのが真相ではないでしょうか。

きっかけは1982年~83年にヒットしたカルチャー・クラブとワム!ですが、

あんなに黒っぽかったにも関わらず、彼らはアイドルの側面もあったため、

音楽的に深く取りざたされることは少なかったのです。

スタイル・カウンシル、ブロウ・モンキーズ、シンプリー・レッド、ワーキング・ウィーク、

そしてスウィング・アウト・シスターなどが揃った1986年から87年が

ブームの頂点だったと思われます。

まったくの新人もいましたが、それらの多くはパンク、ニュー・ウェイヴからの

転向組だったことも面白いですね。

聴き手だけでなく、演奏側も疲れていたんでしょうね。

今日は日本で特に人気の高いこの人たち「スウィング・アウト・シスター」の

1986年の大ヒットナンバー「ブレイクアウト」をお送りしました。

ちなみに彼らも硬派なニュー・ウェイヴからの転向組です。

1月3日(木)の名盤は

今日は新年の1回目ということで、

“デビュー・アルバムの1曲目が最高にカッコいい名盤”を紹介しました。

本来はアルバムの前にシングルでデビューするのが普通ですから、

厳密に言えば、デビュー作の1曲目がそのアーティストの

初お披露目ではないのでしょうが、アルバムしか買わないファンもいますし、

後々まで歴史に残るという意味では、

こちらのほうがより重要と言えるかもしれません。

そうやって考えてみると、例えばビートルズ。

「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」のカウントだけで、

「ここから歴史が変わったんだなー」という生命力が感じられます。

そしてクイーン、ツェッペリンあたりもかなりカッコいいです。

ディープ・パープルの「アンド・ジ・アドレス」、チープ・トリックの「ホト・ラヴ」は、

アルバム全体の出来の良さが1曲だけで決定されるほどの名曲だと思います。

パンク・バンドは「ノリ一発」みたいなところがあるので、

1曲目は秀逸なものが多いです。

そんな中でも、1曲だけ、となれば、この曲はどうでしょうか?

これはまずCD屋さんでジャケットを見て一撃、

そして聴いてさらに一撃、とにかくインパクトは最強。

これが史上最高、というつもりはありませんが、

最高峰のひとつであることは間違いないと思います。

それは…『キング・クリムゾンの「21st Century Schizoid Man」』。

12月27日(木)の名盤は

今日が2007年最後のこのコーナーになりますね。

あんまり明るい話題の少なかった2007年だったように思いますが、

くよくよしないで、楽しく!今日はボビー・マクファーリンの

「ドント・ウォリー・ビー・ハッピー」を紹介しました。

皆さん、ア・カペラというのはご存知だと思います。

楽器の伴奏なしに歌うスタイルのことですが、

これは基本的に言葉に重点を置いた、歌とコーラス世界です。

これを一歩進めて、言葉を離れて、声で楽器の役割まで演じてしまうのが、

ヴォイス・インストゥルメントと呼ばれるものです。

最近のヒップホップやR&B系のグループには

「ヴォイパ」=「ヴォイス・パーカッション」という、声でビートを出す人が

いる場合も多いですが、これもこの一種です。

それをさらにもう一歩発展させて、歌とか楽器とかを超越して、

あらゆる表現を声だけで構築する「ヴォイス・パフォーマー」の

第一人者と呼ばれるのが、このボビー・マクファーリンです。

もともとは前衛ジャズの分野から出てきた人で、

初めはもっと高尚で難解な感じでしたが、

1988年発表の4作目のアルバムでは、ロックの有名曲を

声だけでカバーする遊び心を見せ、自作曲もグッとポップで

親しみやすいものになり、それまでのどちらかというと技術自慢とも

言えなくもなかった作風から大胆に変身、

その中の1曲が底抜けに明るいこの曲で、

映画「カクテル」のサントラにも使用され、全米No.1の大ヒットを記録しました。

もちろん、口笛を含めて、すべての音は彼一人のヴォイスによるものです。

12月20日の名盤は…

今日は、数あるクリスマスソングの中でもアイルランドのバンド、

ザ・ポーグス、1987年の大ヒット曲「ニューヨークの夢」を紹介しました。

歌の内容を説明するなんてのは本当にヤボですが、

それでも伝えずにはいられないのがこの曲で歌われる物語なんです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

物語は酔っ払って牢屋に入れられた初老の男の回想で始まります。

歌の1番では、若い頃、妻と二人で夢と希望に胸を膨らませて

ニューヨークへ移住した当時の幸せな姿が、

2番では結局何ひとつ夢は叶わず、落ちぶれた生活の中で、

お互い口汚く罵りあっている、年老いた現在が歌われます。

妻の役をカースティ・マッコールという人が

見事に客演しているのも聴きどころです。

そして3番で老夫婦は語り合います。

男が「こんなはずじゃなかったのに」と言うと、

妻は「あなたは私の夢を持っていったきりなのよ」と言います。

すると男は「それは今でも大事に預かっているよ。だから一緒にいておくれ。

俺は君なしでは、もう夢を見ることさえできないんだ」。

喧嘩しながらも、お互いを心の底から必要としあっている、

と言えば聞こえはいいですが、相手の支えがなければ

一人では生きてさえいけない悲惨な姿とも言えます。

でも強い絆が感じられます。

秀逸なのはコーラスの部分です。こういう一節があります。

“牢屋の外からニューヨーク警察合唱隊が、

アイルランドの有名な民謡「ゴールウェイ湾」を歌うのが聴こえる。

「ああ、もうクリスマスなんだな・・・」”。

この一節で初めて、この老人も、そして合唱隊の多くも

アイルランド移民であることが分かる仕掛けになっています。

アイルランドからアメリカへの移民は昔から非常の多く、

その大半は生活苦から移民せざるを得なかった人々なんですね。

れはそんな移民の歴史、夫婦愛、圧倒的多数の負け組みの

人生といったものを4分間に詰め込んだ、救いようはないけど、

真実と温かい眼差しに溢れた、感動的な名盤です。

ジョン・レノンや、ワム!や、バンド・エイドを押さえて、

“イギリス人が好きなクリスマスソングNo.1”に選出されたのも当然な、

エバーグリーンな1曲と言えるでしょう。

12月13日(木)の名盤は

今日は1984年、イギリスで大ヒットした、バンド・エイドの

「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」を紹介しました。

クリスマス・コンピCDには必ず入っている有名な曲ですが、

この曲の前後に存在する物語を紹介します。

社会派ロック・バンド゙、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフは、

飢餓で苦しむエチオピア難民の惨状をテレビで見て、社会派の血が騒ぎ、

友人であるウルトラヴォックスのミッジ・ユーロと共に曲を書き始めます。

そのうち現実を社会に知らしめることも大切ながら、

それ以上に一刻も早くアフリカへお金を送ることが重要だと考え、

これをチャリティ・レコードにしようと決めます。

ならば爆発的メガ・セールスを記録しなければ意味がありません。

そこで音楽仲間に片っ端から声を書け、その結果、

U2、フィル・コリンズ、ワム!、カルチャー・クラブ、ポール・ウェラー、

デュラン・デュラン、スティングといったイギリスを中心とした

トップスターがおよそ40名も参加。(一部アメリカ勢も参加していました。)

バンド・エイド名義で発売したこの曲は、思惑通り超大ヒットを記録しました。

参加者は全員ノー・ギャラ。ボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロも印税放棄。

レコード会社も必要経費だけで1円も利益を取らず、

その額は莫大なものでした。奇跡は起きたのです。確かに。

しかしこれに続いたアメリカ勢によるUSA・フォー・アフリカや

ライヴ・エイドは完全にビジネスの匂いが漂ったことから、

エイド・ブームを作ったバンド・エイドに批判が集まるようになったのです。

しかも、アフリカへ送った救援物資は一部の裕福層が横取りし、

本当に必要としている貧困層へはまったく届かず、

チャリティそのものが失敗に終わったことで、急激に夢は断ち切られました。

けれども、一瞬の夢だったのかもしれないけれど、

ミュージシャンとレコード会社、そして我々聴き手の三位一体となった

奇跡はあの時確かに存在したのです。

12月6日の名盤は

今年も12月8日が近づいてきました。

今日はジョン・レノンを紹介しました。

ジョン・レノンついては説明するまでもないかもしれませんね。ただ、

1980年12月8日、射殺されるという形で衝撃的な死を遂げたせいか、

彼のことを“愛と平和の殉教者”とだけ思っている人が多くはないでしょうか。

もちろん、そういう側面もありました。

でも、そういった行動や楽曲は、レノンの活動の一部でしかなかったのです。

ラジオで流れるレノンの曲と言えば「イマジン」、

「ウーマン」、「ハッピー・クリスマス」といった曲ばかり。

生前唯一の全米No.1ヒット「真夜中を突っ走れ」ですら、

ほとんどOAされる事がありません。優しく美しいバラードばかり。

これは我々ラジオ局にも問題があるのかもしれませんね。

激しいシャウトのロックン・ロール・ナンバーはほとんどOAされません。

しかしながらレノンの本質はビートルズ時代からソロ時代まで、

一貫してロックン・ロールなんです。世界で一番クレイジーな

ロックン・ローラーだったからこそのビートルズの人気であり、

40年以上続く、変わることのない高い評価なのです。

ロック・ファンの心臓をワシ掴みにしたヒーローだったからこそ、

ラヴ&ピースのメッセージが

若者に受け入れられたのだということを忘れてはなりません。

今日お届けした曲は、

麻薬の禁断症状を歌ったヘヴィなロック・ナンバーですが、

喉が張り裂けんばかりのシャウト、これこそレノンの真骨頂です。

<前へ 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21