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名盤 IN A DAY

11月29日(木)の名盤は

今日は、日本でもファンの多い「ボズ・スキャッグス」を紹介しました。

1970年代後半から80年代頭にかけて、

世界中で大ブームを巻き起こしたAORと呼ばれる音楽の

先駆者にして代表的存在、それがボズ・スキャッグスです。

そのAORとは?1950年代に誕生し、60年代に定着したロックミュージックは、

ある意味若者の音楽でした。当時ロックに親しんできた人々も

70年代後半になると30代に突入し、より激しく、うるさく、

大音量になっていくロックについていけなくなってきました。

そんな人々を対象にした、やかましくなく、耳障りではないものの、

子ども向けのポップスではなく、一応ロックを聴いている気にさせてくれる、

大人の為の新しいロックが生まれました。

それが、アダルト・オリエンティッド・ロック、AORと呼ばれるものです。

ただ「心地よいロック」というだけならば、以前からあったのですが、

AORがそれらと大きく異なっていたのは、時代を反映した都会風味というか、

洗練されたおしゃれさ、リッチでゴージャスなフィーリングが加えられたことです。

そしてそのAORを最初に定義づけたアルバムが、

同じ1976年に発表された、ネッド・ドヒニーの「ハード・キャンディ」と、

ボズ・スキャッグスの「シルク・ディグリーズ」の2枚と言われています。

この2枚奇しくもジャケット写真を同じモシャ・ブラカという人が手がけていて、

サウンドとともに視覚的イメージでもAORを決定づけています。

11月22日の名盤は

今週はサザン・ソウル/ディープ・ソウルについて紹介しました。

サザン・ソウルというのは、ごく簡単に言ってしまうと、

アメリカ南部から生まれた、ゴスペルやブルースに直結した、

いわゆる「濃~い」ソウル音楽のことで、必ずしも南部出身ではない

場合もあることから、ディープ・ソウルとも呼ばれています。

有名なところでは、1960年代のオーティス・レディングなどがいます。

全身を使って声を振り絞って歌う中に、哀しみがじんわりと滲み出てくる、

そんなイメージです。

こういった音楽は1960年代から70年代前半までは、

とても人気があったのですが、時代の流れとともに、だんだんと衰退、

70年代後半には、一部の愛好家たちを除いて、

メインストリームからは姿を消してしまいます。

まぁ、お酒でもタバコでも、ライフ・スタイルから人間関係、

さらには人間そのものが、ライトでマイルドな方面に向かっていく時代には、

そんなヘヴィで濃い歌は、ずいぶんと野暮ったく聴こえたのでしょう。

さらにはソウルの主な購買層である黒人たちにとっては、

そんなディープな歌は、苦しく貧しかった奴隷時代を思い出すということで、

特に社会進出を果たした都会の裕福な黒人層からは

拒絶されることもあったようです。

そんな中、1983年にジェイ・ブラックフットという人の「タクシー」という曲が

思いがけずヒットしました。

60年代からソウル・チルドレンというグループで多くのヒットを放った

彼のソロ第1弾で、サウンドこそは80年代風に洗練されているものの、

歌声はまさしくディープそのものでした。

若年層や白人にも受け入れられたこの曲のヒットが、

「黒人ならではのディープな感覚というものは、

いつの時代でもコンテンポラリーたりうる」と証明してみせました。

そしてその感覚はヒップホップ以降にも確実に息づいています。

11月15日の名盤は

一風変わった珍しい曲の名盤を紹介しました。

イギリスにクリス・スペディングというギタリストがいます。

一般的には、それほど有名ではないかもしれませんが、

知らず知らずのうちにこの人のギターの音を耳にしている

音楽ファンはとても多いんです。1960年代から現在に至るまで、

スタジオミュージシャンとして、

おそらく数千曲のセッションに参加しているのです。

ロキシー・ミュージックには正式メンバーとして一時期在籍していましたし、

セックス・ピストルズのレコードで実際にギターを弾いたのは、

この人という話もあります。ロックを中心としながらも、

ジャズからロカビリーまで何でもこなせる天才職人ギタリストとして、

超売れっ子な訳ですが、そうなると当然のように

自分名義の活動をしたくなるのが人情ってものでしょう。

そんなソロ活動の中の1曲が、1976年にリリースした、

この「ギター・ジャンボリー」です。なんのことはない、

当時の人気ギタリストのものまねをメドレーでつなげたという、

安直な企画のノベルティ・ソングです。

本人としてもお遊びのつもりだったでしょうし、録音状態もあまり良くなく、

第一この人の技量をもってすれば、

ギターもアンプも本人と同じ物をそろえて、完璧にコピーすることが

できるであろうに、自分のギター1本で、適当にやった感が伺えます。

恐らく、こんなの朝飯前で作ったのでしょう。

ところが、これが売れたんです。

今なお、彼のソロ名義で、これを超えるヒットはありません。

本気で心血を注いで作ったものではないものが、

自分の代表作と言われてしまう不幸。

思うようにはうまくいかないのが人生、ということなのでしょうか。

でもロックファンが聴けば、間違いなく楽しめる1曲です。

11月8日の名盤は…

今日は黒人女性ボーカル・グループ「ポインター・シスターズ」を

紹介しました。グループ名の通り、カリフォルニア出身の、

ルース、アニータ、ボニー、ジューンのポインター四姉妹グループ。

両親が牧師という環境で、子どもの頃からゴスペルを歌っていましたが、

少しずつ世俗の歌も取り入れるようになり、1973年にアルバム・デビュー。

この当時の彼女たちは、ソウルだけでなく、

戦前のノスタルジックなスタンダード・ナンバーから

ブルース、さらにはジャズ風あり、カントリー調ありと、

様々な要素を混ぜ合わせた音楽性が特徴で、ヒット曲も多く出しましたが、

ある曲はポップ・チャートで、別の曲はソウル・チャートでヒットし、

さらには別の曲で、黒人として初めてグラミー賞のカントリー部門を

獲得してしまうなど、ある意味ではつかみどころのない、

どっちつかずのイメージが強かったのも事実です。

そんな時、三女のボニーがソロとして独立してしまいます。

残された3人は引退も考えましたが、

大物白人プロデューサー、リチャード・ペリーが新会社を設立。

その第一弾アーティストとして彼女たちを迎え入れたのです。

ペリー曰く「黒人音楽とロックの架け橋になるようなものを作るには、

彼女たちが最適」ということで、吹っ切れた彼女たちは、

サウンド的にはよりロック色を強め、

歌はゴスペル出身らしいソウル色を全開にして、

それまでありそうでなかった独自の音楽を作り出し、

4人組だった時よりもはるかに大きなスケールの成功を手にしました。

今日紹介する曲は、1981年にブラック・チャートで7位、

ポップ・チャートで2位を記録し、ミリオン・セラーになった大ヒット曲。

このチャートのバランスこそが、

彼女たちとペリーが目指したものに他ならないものなのでしょう。

11月1日(木)の名盤は

今日は「ビー・ジーズ」の哀愁のトラジディを紹介しました。

ビー・ジーズはイギリス生まれのイギリス人、バリー、ロビン、モーリスの

ギブ3兄弟によるボーカル・グループとして1963年に

移住先のオーストラリアでデビュー。多くのヒットを残し、

1967年にイギリスへ戻り、ワールドワイドな活動が始まります。

ここから1970年代初頭にかけて20曲近いヒットを連発。

イギリスのみならず、アメリカやここ日本でも大きな人気を獲得しましたが、

1972年から73年頃になると勢いにも翳りが見え始め、

心機一転、彼らはアメリカへ活動の拠点を移すことを決意します。

ここで大物プロデューサー、アリフ・マーディンと出会い、

ファルセットで歌うことと、当時最先端であったディスコ・サウンドへの

挑戦を指示されます。それまでのキャリアと実績を考えると、

屈辱とも思えるこの申し出を受け入れた彼らは、

まさに別のグループに生まれ変わって、

第2期黄金時代を築き上げることとなったのです。

1975年から79年までに6連続を含む、8曲の全米No.1ヒットと、

この時期のビー・ジーズは手のつけようがないほどの怪物ぶりでした。

まったく違う芸風で2度の黄金期を持ち、イギリス、アメリカ、オーストラリア、

それぞれのファンは、みんな自分達のグループ゚だと思っている、

こんなお化けみたいなスーパースターは他にありません。

10月25日(木)の名盤は

今日は「リトル・リヴァー・バンド」を紹介しました。

最近では、JET、サヴェージ・ガーデン、カイリー・ミノーグ等の活躍で、

オーストラリアの音楽シーンというのも、

イギリス、アメリカに勝るとも劣らないほど高いレベルだということが

知られるようになりましたが、

1970年代までは情報がうまく伝わらなかったこともあって、

ほとんど話題になることはありませんでした。

最初にオーストラリア出身アーティストとして脚光を浴びたのは、

1960年代のビー・ジーズ、70年代初頭のオリヴィア・ニュートン・ジョン、

ですがこの2組はどちらもイギリス人のオーストラリア移住者でした。

その後、AC/DCが登場しますが、彼らの場合は世界的な成功とほぼ同時に

活動の拠点をイギリスへ移していましたし、

「オーストラリアのバンド」というより

「ハードロックのバンド」のイメージが強すぎました。

そんな中、初めてオーストラリアを拠点にして、世界的な成功をおさめ、

オーストラリアのレベルの高さをアピールしたのが、

1975年にデビューしたリトル・リヴァー・バンドでした。

もともとイギリス領だったこともあって、イギリスの影響が大きく、

まずはイギリスで、というパターンが多かったオーストラリア勢の中で、

アメリカの、とりわけ西海岸の影響が色濃く、

始めから全米進出を狙った彼らの方法は正解で、

デビュー直後からヒットを連発。

爽やかなコーラスを生かしたサウンドはアメリカン以上に

アメリカンとの評価も獲得しました。

最大のヒットは1978年、全米3位のこの曲で、

彼らはついに念願の全米制覇には及びませんでしたが、

この後のエア・サプライ、イン・エクセス、メン・アット・ワークといった

オーストラリア勢が1980年代に全米を制することができたのは、

リトル・リヴァー・バンドが道を開いてくれたおかげでしょう。

10月18日(木)の名盤は

今週はプリテンダーズを紹介しました。

21世紀の現時点で、音楽的な質の高さと、それに伴う人気と実績、

それから後輩たちへの影響力の大きさや、

ルックスも含めた生き方そのもののカッコ良さで、

“アネゴ”として君臨するのが、アメリカではジョーン・ジェット、

イギリスではこのプリテンダーズのフロント・ウーマン、

クリッシー・ハインド、ということになります。

さてこのクリッシー姉さん、もともとはアメリカ人ですが、

イギリスに渡って音楽記者として働いていましたが、

どうしても自分で音楽がやりたくなり、プリテンダーズを結成。

1979年にデビュー。姉さん以外の3人のメンバーは全員男性。

キレ味の鋭い、ソリッドなR&Rサウンドの中にも、

60年代風のノスタルジックな感覚と、あくまでもポップでキャッチーな

メロディが同居した音楽性で最初からヒットを連発、

あっという間にイギリスのトップ・バンドに上り詰めました。

ところが、2枚のアルバムを大ヒットさせたあたりから、

精神的・体力的に疲れたメンバー達はドラッグに手を出し始め、

1982年と翌年83年に相次いで2人のメンバーを亡くしてしまいました。

失意と絶望の中、バンド存続を悩んだクリッシーは、

ちょうど「ハイハイ」を覚えた我が娘を見て、進むことを決断。

新メンバーを集めて制作、1984年に発表された3rdアルバムには、

娘の姿と新バンドととして一から出直すという意味を重ねて、

「Learning to Crawl(ハイハイを覚える)」と名付けられました。

結婚、出産、そして相次ぐメンバーの死という人生の明暗を乗り越えて、

「ハイハイ」から再始動したそのサウンドは、

以前より力強く、そして優しく強くたおやかで、感動的でさえあります。

10月11日(木)の名盤は

今日は、80年代から90年代にかけて多くのヒット曲をリリースする

「アメリカの国民的バンド」といった感じで親しまれる、

「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース」を紹介しました。

1980年にヴォーカルのヒューイ・ルイスを中心に

サンフランシスコで結成された6人組ですが、ルイスともう一人は

それ以前にクローヴァーというバンドを組んでいて、イギリスへ渡り、

2年ほどパブ・ロック(イギリスの酒場のバー・バンドと思ってください)を

経験しています。その時に知り合った縁で、クローヴァーは

エルヴィス・コステロのデビューアルバムのバックを全面的に担当しています。

しかしそれで脚光をあびることもなく、アメリカへ戻って新たに結成したのが、

ニュースだった訳です。基本的にそんなバー・バンド゙の流れを汲むだけに、

古いロックン・ロールやリズム&ブルース、カントリーなどに根ざした、

派手さのない地味な音楽性のニュースですが、

前身のクローヴァーと比べると、派手なシンセサイザーを導入し、

全体的なアレンジをコンテンポラリーな、いかにもアメリカ好みな

明るく陽気な感じにしただけで、火がついてしまうのだから、音楽は面白い。

10月4日(木)の名盤は

今日は「イエロー・マジック・オーケストラ」「YMO」をピック・アップ。

1978年、細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一の3人で結成されたYMO。

「シンセサイザーとコンピューーターを駆使したテクノ・ポップの世界的な先駆者」と

言われますが、一言だけでは片付けられない不思議さがあります。

わずか5年の活動で見事に音楽性が変化していて、

純粋にテクノ・ポップと呼べるのは初期だけですし、

それでさえ機械演奏と同時に、リズムと主メロは自らの手弾きがメインで、

よくわからなくなります。

細野晴臣と高橋幸宏は、YMO以前からロック・スターの地位を確立、

当時の日本で最高のベーシストであり、ドラマーでした。

坂本龍一は一般的には無名ながら、クラシックを本格的に学んだ

敏腕スタジオ・ミュージシャンでした。そんな超一流のプレイヤー3人が、

コンピューターを使って、世間を相手に思い切り真剣に遊んだだけ

なのかもしれません。お笑い芸人と絡んだり、3人自ら漫才をやったりした

中期から後期になると、逆に音楽はどんどんシリアスになっていきます。

YMOは音楽のみならず、ファッションやライフ・スタイルを巻き込んだ風俗で、

YMOというひとつのジャンルだったのかもしれません。

5年間を風のように過ぎ去った、ジョークとフェイクに満ち溢れたYMOワールド。

このジャンルを通過した人達が、

90年代以降の様々な分野でも活躍しています。

9月27日の名盤は

今日は、秋の気配が感じられるようになった今の季節にぴったりの

女性ボーカル名盤「カーリー・サイモン」をピック・アップしました。

現在も現役で活動する彼女は、ボブ・ディランのバック・コーラスなどで

活動した後、1971年にデビュー。当時のアメリカは、

シンガー・ソングライター・ブームが盛り上がりつつある中、

その女性先駆者的な存在としてヒット曲をたくさん生み出しました。

そして人気がどんどん上昇してきた1972年、

同じシンガー・ソングライター仲間で、以前からお互い交流のあった

ジェイムス・テイラーと結婚。その直後に発表したのが、

3rdアルバム「ノー・シークレッツ」と、シングル「うつろな愛」です。

この曲は1973年1月、彼女にとって初めての全米No.1ヒットを記録した、

代表作のひとつで、歌手としてもソングライターとしても十分に実力が開花し、

その上で結婚という私生活の充実が加わり、

彼女の持ち味である伸び伸びとした大らかな魅力が発揮されています。

話題となったのは、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが、

一発でそれと分かる声でコーラス参加していること。

おしどり夫婦として知られたカーリー・サイモンとジェイムス・テイラー。

その後10年ほどで別れております・・・.。

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