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名盤 IN A DAY

4月16日(木)の名盤は…

今日は「人生、どこにチャンスが転がっているか分かりません」という

”トレイシー・ウルマン”のエピソードを紹介しました。

トレイシー・ウルマンはイギリスの売れない女優でした。

テレビバラエティに出演するようになり、

コメディエンヌとして認知され始めた1983年初頭。

美容院で隣り合わせたおばさまから声を掛けられます。

「あら、テレビに出てる人よね。私、大ファンなのよ。そうだ、あなた、

うちの主人の会社からレコードを出してみない?」と。

そう、このおばさまのダンナさんというのが、エルヴィス・コステロを

世に送り出し、大人気バンド、マッドネスを抱え、

当時一番勢いのあったインディ・レーベル、

スティッフ・レコードの社長だったのです。

トレイシー・ウルマンはもともとミュージカル志望で

歌のレッスンを積んでいましたし、歌が大好きな彼女は、

この運命の出会いに身をまかせることにしました。

優れた才能を集めて制作されたアルバムのコンセプトは

“60年代ガールズ・ポップ”。

甘くノスタルジックなムードの中にもニューウェイヴを通過した

同時代性が同居したサウンドの完成度は高く、

彼女のキュートかつ確かな歌唱力も素晴らしく、すぐに大ヒットしました。

ノヴェルティ・ソングを歌うタレント、という形をとらず、

一人の新人歌手として本格的に制作した作戦の勝利だったと言えるでしょう。

一気に大ブレイクした彼女でしたが、ヒット・シングル6枚、

アルバム2作だけで人気絶頂の中、わずか19ヶ月で歌手を引退。

本業へ戻ってしまいます。

実はシングルの1曲が海を越えて全米8位のビッグ・ヒットとなり、

アメリカのテレビ界からオファーが来たのです。

アメリカに渡った彼女は、なんと「トレイシー・ウルマン・ショー」という

トーク番組の司会に抜擢され、この国でも人気者となったのです。

さらに本当の本業、女優としても「殺したいほどアイ・ラヴ・ユー」、

「おいしい生活」、「アリーmyラヴ」などに出演し、

エミー賞を受賞する活躍で、一流の仲間入りを果たしています。

長年の夢が叶ったんですね。

今では歌手として歌うことはありませんが、昔の人脈を活かして

ガン撲滅チャリティコンサートを主催するなど、自分を育ててくれた音楽界とは

良い関係を保っているようです。

それにしてもわずか1年半の歌手活動しかしていない女優のCDが、

25年後の今なお何枚も普通に売られ、なおかつ音楽的にも

高く評価されているなんてすごいですよね。

彼女の作品がいかにエヴァーグリーンな名盤なのかがよくわかります。

4月9日(木)の名盤は…

今日は「サヴァイヴァー」を紹介しました。

このバンド、1970年代初めから様々なバンドを経て、

文字通りしぶとく“生き残って”きた5人のメンバーで結成、

1980年にデビューするもヒットに恵まれずにいましたが、

1982年、なんと、あのS.スタローンから「ロッキー3」の

主題歌のオファーが来たのです。

これに提供したのが「アイ・オブ・ザ・タイガー」。

6週連続全米1位の大ヒットとなり、一躍成功を勝ちとったはずでした。

ところがツアーに出てもトリは取らせてもらえず、ベテランの前座ばかり。

グラミー賞まで受賞したにもかかわらず、です。

それどころか、サヴァイヴァーという名前があまりにもロッキーの人生と

マッチしすぎているために“実はあれはスタローンが作った架空のバンドで、

作曲もスタローン本人である”という根も葉もないデマまで広まってしまい、

次のアルバムは大コケ、

ヴォーカルが脱退と一転して崖っぷちに立たされたのです。

なんとか新歌手を迎えて、

地道にまた生き残りをかけようと動き出した1985年、

再びスタローンから「4」の主題歌を依頼されます。

この依頼を受けるべきか?今回ばかりはさすがに考え込みましたが、

結局、感謝とリヴェンジの両方の気持ちでこれを受けることにしました。

そして今度はバラードを推したのですが、

映画製作サイドが選んだのは前回と同じ路線の「バーニング・ハート」でした。

全米2位の大ヒットとなったものの、

口の悪い人たちは「またロッキー?」「似たような曲ばかり」と言い出します。

しかし、何度も困難をサヴァイヴしてきた彼らは、

こんな声を予測していたように6作目のアルバム「ホエン・セカンズ・カウント」

には「バーニング・ハート」をあえて収録せず、

新曲ばかりで完成させ、ここから3曲のヒットを放ち、

内容的に最高傑作との評価を獲得したのです。

逆境に負けず、しぶとく生き延びてきた者の意地を見せた一撃でした。

(しかしここで力尽き、次作はまたもや大コケ、

遂に90年代をサヴァイヴすることはできませんでした。)

今日はそんなサヴァイヴァーの1986年のナンバー、

「ロッキー4」のために最初に作った

マン・アゲンスト・ザ・ワールドを紹介しました。

4月2日(木)の名盤は…

今日は”バンド名”をテーマにお送りしました。

以前、本来外国語の固有名詞であるバンド名を

日本でカタカナ表記することの難しさについてはお話しましたが、

今日は英語を母国語とする人たちにとってはどんな感じに聴こえるのか、

そしてそれはカッコいいのか?ということをちょっと考えてみました。

例えば「シカゴ」、「ボストン」といった地名をグループ名とするバンド。

これを日本語に当てはめて考えてみましょう。

地名のグループ名と言えば「平川地一丁目」という名前がありますね。

次に「ヴァン・ヘイレン」や「ネヴィル・ブラザーズ」。

これを日本語で考えて見ますと、バンドじゃありませんが、

「中川家」とか「吉田兄弟」といった感じでしょうか。

それから「エヴリシング・バット・ザ・ガール」とか

「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド」などの、

ほとんど文章になっているバンド名は、

「勝手にしやがれ」とか「それでよかったのか?」というのに近いですね。

この辺りまでは案外、英語を母国語をとするネイティヴな人達にも

違和感はないのかもしれませんが、英語のバンド名と言いますと、

最もポピュラーだと思われるのは「ザ・何々ズ」という名前じゃないでしょうか。

例えばザ・ベンチャーズとかザ・モンキーズなど。

これが単に複数形のSだったら

日本ではいちいち複数と単数を区別しませんから、

名詞のグループ名「ケツメイシ」とか「キンモクセイ」なんかと

同じということになりますが、「ザ・~(なになに)ズ」というと、

一つの集団とかグループを表す意味合いが強いので、

「~団」とか「~組」とか「~軍」とかいう感じになると思うんです。

となると、日本でも「憂歌団」とか「竜童組」とか「ピンクリボン軍」とか

あるにはあるんですが、

英語の「ザ・~ズ」ほどポピュラーではないような気がしますね。

「ザ・モンキーズ」を日本語で考えると「猿軍団」とか「猿組」

といった感じになると思うのですが、

果たして英語圏の人達にとって、

こういった名前はカッコよく響いているのかどうか、

実際に聞いてみたいところです。

今日はそんな名前のグループの中から代表して、

アメリカの「ザ・カーズ」の”レッツ・ゴー”(1979年)を紹介しました。

「ザ・カーズ」、日本流に言えば「自動車団」…(?)

3月26日(木)の名盤は…

今日はちょっと珍しいところで、オランダのロックを紹介しました。

オランダ、ロックと聞いて、どんなイメージがありますか?

具体的なイメージが浮かばないという方が多いかもしれません。

世界的に人気のあるアーティストは少ないものの、

優れた才能を持つ人たちがいるんですね。

特に1960年代末期から70年代にはイギリス、

アメリカで多くのヒットを放つグループがたくさんいて、

”ダッチ・ロック・ブーム”というものがあったほどなんです。

例えば有名な大ヒット曲「ヴィーナス」のショッキング・ブルー、

今やガレージ系のファンから再評価されているゴールデン・イヤリング、

以前このコーナーで「悪魔の呪文」という曲を紹介したフォーカス、

プログレッシブ・ロックの名バンド、トレイスなどなど。

オランダから世界に向けて優れた楽曲を発信していました。

その中から今日は、日本で1971年に大ヒットを記録した

アース&ファイアの「シーズン」という曲をお送りしました。

アース、ウインド&ファイアではありませんよ。

イギリスともフランスやイタリアとも、またドイツとも異なる独特の味わいが、

オランダ風のサウンドには共通しているような気がします。

3月19日(木)の名盤は…

今日は”スティクス”を紹介しました。

スティクスのもともとの中心人物は大半の曲を作り、

ボーカルも取っているデニス・デ・ヤングという人で、

デビュー以来、高い評価を得ながらも

セールス的にはなかなか成功しない状態が続きました。

ところが6作目のアルバムから変化が起こります。

彼と同様に曲が書け、歌もイケるうえに5歳も若く、

ルックスもイケメンのトミー・ショウが加入するんです。

それと同時にヒットも生まれ、この1970年代後期から80年代前半にかけて

彼らはアメリカを代表するスターへとのし上がります。

もちろん、100%トミーのおかげという訳ではありません。

彼の参加によってデニスが刺激を受け、お互い切磋琢磨した結果です。

最初のうちはまだ経験の差があった二人ですが、

だんだんと差が縮まってきて、ついには才能、

技量ともにほとんど同じレベルになってしまいました。

そうなるとデニスは面白くないでしょうし、トミーの先輩に対する

態度もちょっとどうかな、という感じで、

結局この確執が原因でバンドは空中分解してしまうんですね。

その後、1990年には、トミーが新バンドを結成したと耳にするや否や、

デニスは残りのメンバーとスティクスを再結成します。

トミーは激怒しますが、96年に和解し、彼も戻って全員で再々結成します。

丸く収まったかと思いきや、99年にデニスが体調を崩すと、

今度はトミーが彼を解雇。

するとデニスは「バンドの権利は自分にある」と訴訟を起こし、

報復合戦というか、もはや子どものけんかのようになってしまいます。

もし二人の実力にあきらかな差があったならば、

あるいはトミーが最初からメンバーだったならば、

そして年齢も同じくらいだったならば、

ここまで根が深くならなかったのでは?という気もします。

全盛期は純粋に音楽だけで火花を散らしたからこそ、

見られたのであろうバンドとしての輝きが、

再結成以降は薄れてしまっていることが残念でなりません。

3月12日(木)の名盤は…

今日は皆さんおなじみのスーパー・スター、

「ビリー・ジョエル」を紹介しました。

さすがに彼のことを”ピアノ弾き語りのバラード歌手”というだけでなく、

広い意味でのロック・アーティストであり、

名エンターテイナーと認識するファンも増えてきたようですが、

それでもリクエストの上位を占めるのは「素顔のままで」や「オネスティ」、

「ピアノマン」といった曲なんです。

人気があるのはもちろんいいことですが、

ビリー・ジョエル本人がそういうイメージを嫌っている、

とまではいかないまでも、あまり快く思っていないフシがあるようです…。

本人からすれば、幼い頃夢中になったプレスリーやレイ・チャールズ、

そしてビートルズなんかのロックン・ロールを

彼なりの解釈でやっているだけなんでしょうね。

こんなエピソードがあるんです。

音楽で食べていけるようになったビリーが、

ずっと苦労をかけっ放しだった父親を録音スタジオに招待した時のこと。

(ちなみに彼のお父さんも音楽教育を受けた方で、ビリーは子どもの時

クラシック・ピアノを習わされていたということなんですが。

そんなお父さんを招待した訳です。)

立派になった息子に感激しつつもお父さんは帰り際、

「でもビリー、私の耳にはお前のピアノは調子が外れて聴こえるんだが」と

忠告したそうです。するとビリーは

「お父さん、それがポップ・ミュージックなんだよ」とウインクしたと言います。

この言葉がまさにビリー・ジョエル自身を表していると思います。

・・・ということで、

今日はロックン・ロールピアノ・マンとしてのビリー・ジョエルを代表する曲、

という事で、ピアノを弾きつつロックン・ロールで、

なおかつ今日はベスト盤に入っていないという

1980年の曲「レイナ」を紹介しました。

3月5日(木)の名盤は…

今日は、

女性ロッカーパット・ベネターの「ハートブレイカー」を紹介しました。

今でこそ女性がロックをやるのは普通のことですが、

昔はそうではありませんでした。

「女のくせに」などと叩かれながらも負けずに戦ってきた偉大なる才能たちが

少しずつ市民権を勝ち取ってきたのです。

女性ロッカーの流れをさかのぼっていくと、

その源流は1960年代のジャニス・ジョプリンになると言われています。

ただ、彼女は最も風当たりの強い次代を生き抜いただけあって、

あまりにも個性が強烈なため、現在では直接的に影響を受けている人は

ほとんど見られません。70年代に入ると「女性ロッカーは商売になる」と

考えた人々によって、ちょっと色モノっぽい形での売り方が主流になり、

これも現在の流れとは少し違うかもしれません。

今に続く流れが完成したのは80年代初頭でしょう。

その中でもハード・ロック系女性シンガーのメインストリームを決定付けたのが、

今日の主役、パット・ベネターであることは疑う余地がありません。

グラミー賞を4年連続で受賞するなど、

メジャー・レベルで大きな影響力がありました。

歌い方はもちろんのこと、露出の大きなレオタードに黒タイツというスタイル

(パット・ベネター・ファッションとか、パット・ベネター・ルック)も含めて、

一時期はアメリカ、イギリス、さらに日本でもそっくりさんが続出。

右も左もパットもどきが溢れるほど真似られました。

でも誰も本家を超えることができません。

それはパットは10代でオペラ歌手を目指して訓練していたため、

完璧な発声を身に付けていることや、ハードロックのイメージが強いながら、

バラードも絶品で、特に出産後は母性の優しさを感じさせるスタイルへと

移行できたこと、そして50歳を過ぎた今では着ることはありませんが、

それでもレオタードが似合うほどのプロポーションを保つ

ストイックさがあるからでしょう。

女性ロッカーの礎を築き、女王として君臨するには、

ちゃんと理由・実力があるんですね。

2月26日(木)の名盤は…

今日は、

1972年の全米No.1ヒット「オー・ガール」という曲を紹介しました。

音楽に国境はない、なんて昔からよく言われますが、

これは言い換えるならば、”音楽に言葉の壁はない“ということでしょう。

確かに私たちは外国語がよく分からなくても

洋楽を聴いて感動することができます。

そういった意味ではもちろん国境なんてありません。

でもアーティスト名を日本語表記する時、

本来外国の言葉である固有名詞をカタカナで書き換えるとなると

なかなか難しい、今日はそんな例をご紹介したいと思います。

例えば”クイーンズライチ”というヘヴィメタルのバンドがいますが、

このバンド名の表記がいつの間にか”クイーンズライク”に変わってしまった

という出来事がありました。

恐らくもともとの発音に忠実に表記したらこちらの方が

近いということなのでしょうが、

ファンにとっては途中から名前が変わるなんて、ちょっと変な感じですよね。

ある雑誌社は母国語の発音に忠実な表記に徹すると宣言した上で、

一般的にはキング・クリムゾン、ロキシー・ミュージックと言われているバンド名を

キング・クリムズン、ロクシー・ミュージックと表記し続けています。

ところがすべてを発音に忠実に表記しようとするならば、音楽評論家、

DJなどとして知られるイギリス出身のピーター・バラカンさんによると、

レッド・ツェッペリンは”レッゼプリン”、

ゲイリー・ムーアは”ガーリー・モー”と言った方が近いそうなんですが、

この辺りの名前に関しては、その雑誌社でも”レッド・ツェッペリン”、

”ゲイリー・ムーア”という一般的な表記と同じ書き方をしている、

ということなんですね。

結局、外国語をカタカナに訳す時点で、100%翻訳することは不可能な訳で、

そういった意味ではカタカナで表記されている名前というのは、

日本だけで通用する日本の名前と考えたほうがいいのかもしれませんね。

で、今日ご紹介した曲は1972年の全米No.1ヒット「オー・ガール」でしたが、

この曲を歌っているグループが、まさにこの日本語で表記することの難しさに

翻弄されているグループ名の一つだと言えると思います。

ソウルの名門グループなんですが、

レコード会社が変わる度に

”シャイ・ライツ”

”チャイ・ライツ”

”チ・ライツ”

と表記が変わっているんですね。

ちなみに横文字での表記はthe Chi-Litesと書くんですが、

カタカナ表記を統一してもらわないと、

ラジオで紹介する時はちょっと困ります(笑)

2月19日(木)の名盤は…

今日は、ディック・セント・ニクラウスの「マジック」を紹介しました。

昔はいろいろな情報が少なく、特に海外事情を知る方法なんて

本当に限られていたので、例えばスポーツの世界などでは、

“まだ見ぬ強豪”というものが存在して、

ファンの想像を膨らませたものです。

実際に見てみると“とんだ一杯食わせもの”だったりすることも多いのですが、

それでも数少ない前情報をもとに「どんなすごいヤツが来るんだろう」と

ワクワクしたりしたものです。

音楽でもちょっと前までは日本盤の発売がアメリカ、イギリスより

半年から1年ぐらい遅れることが当たり前でしたし、

向こうでそこそこ話題になったものでも

日本での発売が見送られることも多かったので、

“知る人ぞ知る伝説のミュージシャン”だとか

“幻の名盤”なんてのがマニアの間で注目の的になることとなったのです。

さらに、そんな情報の乏しさを逆手に取ることもありました。

例えば海外ではまったくヒットしていないのに“話題の新人”として紹介され、

日本でだけヒットしたという曲がたくさんあります。

けれども、インターネットで地球の裏側のマイナーな曲まで

リアルタイムで聴くことができる現在よりも、ファンタジーがあって、

のどかな時代だったような気がします。

さて今日ご紹介するディック・セント・ニクラウスの「マジック」なんですが、

大阪で人気が出そうだ、と直感した担当者が、

関西限定という形でリリース。

大阪のラジオ局やレコード店が総出で仕掛けて見事にヒットしました。

すぐに全国発売され、全国区でもヒットとなりました。

ちなみに彼の本国では不発に終わり、

2ndアルバムはアメリカでは発売拒否され、

日本だけでしか売られませんでした。

アメリカでは1979年、日本では1980年の出来事ですから、

乏しい情報から夢や空想を膨らませてヒットが生まれることもある、

そんなことが通用した時代も終わろうとする頃の、

日本独自のヒットと言えると思います。

2月19日の名盤は…

今日は、アメリカで根強い人気を誇る女性シンガー・ソング・ライター、

ジル・ソビュールを紹介しました。

楽器を何でもこなすマルチ・プレイヤーなのですが、

何と言っても曲作りが素晴らしいんです。

ポップなメロディが上手いのはもちろん、歌詞の物語性が最高なんです。

しかも毒もユーモアもあるんですよ。

例えば、「あの人は仕事人間で、きっとつまらない人生を

送っているに違いないとみんなでウワサしていた会社のお局さまが、

実は夜になるとバイクを乗り回して人生を楽しんでいるのを知って、

つまらない人生は私の方だった、と気づかされる」歌や、

「学校時代のすごく美人だったんだけど、嫌味な同級生が、

芸能界に入ったまでは知っていたけど、

たまたま目にしたエッチなビデオのパッケージに写っていて、

今はなんだかあの頃のことも許せる気がする」という歌などなど。

着眼点から展開のさせ方、そしてオチのつけ方まで、実に絶品なんです。

そんな彼女の、この季節にぴったりの曲、「バレンタイン・キッス」を

今日はお送りしたいと思いますが、

実はこの日本語のタイトルは日本で勝手に付けたもので、

歌詞の内容はバレンタインとは無関係なんです。

もともとのタイトルは「I kissed a girl」。どんな内容かと言いますと、

仲の良い女友達二人がお互いの彼の愚痴を言いながら

酒を飲んでいるうちに、そのままキッスして夜を共にしちゃったという、

ちょいとアブナイお話なんです。

ちなみに彼女自身はレズビアンではないそうなんですが、

1995年に発表されたこの曲は、全米に衝撃を与え、

とにかく彼女を一躍有名にした代表曲です。

「バレンタイン・キッス」という日本で付けられたタイトルだと、

ただのラヴソングなのかなと想像してしまいがちですよね。

でもそう思われてしまっては、彼女の歌の本当の魅力は伝わりません。

彼女が日本でマイナーなのは、

この辺り(日本語のタイトルの付け方のセンスというか・・・)にも

原因があるんじゃないでしょうかね。

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