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名盤 IN A DAY

4/1(木) ボニー・レイット

今週は女流アメリカン・ロックの良心、ボニー・レイットを紹介しました。

ロサンゼルス出身で8才からギターを手にした彼女は、

白人でありながらブルースやリズム&ブルースを聴きあさり、

進学のために移住したマサチューセッツ周辺のブルース・クラブで

歌っているところをスカウトされ、1971年にデビュー。

白人らしからぬブルージーなムードと女性らしからぬ(…)

スライド・ギターの腕前、そして歌心に溢れたボーカルは各方面から絶賛され、

一部のマニアや同業のミュージシャン仲間達の心をガッチリ掴みましたが、

商業的成功には結びつきませんでした。

才能を認めていたレコード会社は、じっくり育てようと手を変え品を変え、

いろんなプロデューサーをあてがい、15年間我慢しましたが、

ついに”才能はあり、それなりのビッグネームだが、

レコードが売れない”として、クビを宣告します。

ちょうど同じ頃、彼女は私生活でも恋人との別れがあり、

失意のあまり酒とドラッグに溺れてしまいました。

ただ、そんな状態でも敬けんなクエーカー教徒の彼女は

反核、人権問題、自然保護などの

チャリティ活動には熱心に参加を続けています。

その中のひとつ、ブルース音楽家の著作権保護のコンサートに出演した際に

自分がいかにブルースが好きかを再確認し、

”また歌おう、まだやれる”と思い、

その足で更生施設へ向かい、ドラッグと酒を抜いたそうです。

そして捨てる神あれば拾う神あり、新しい契約を結び

1989年に発表した作品が「ニック・オブ・タイム」。

心機一転、気合を入れ直したこのアルバム、

最初はそれほど売れたわけではないのですが、

内容の素晴らしさが評価され、翌年90年のグラミー賞で4部門を独占。

すると発売13ヶ月後に全米No.1を獲得という、

誰も考えもしなかった快挙を勝ち取ったのです。

デビューから19年、40才にして、

しかもリストラと麻薬中毒を乗り越えてのWの栄誉。

人生、あきらめなければ何が起こるかわからないのです。

今日から新年度。新しい生活をスタートさせるという方もいらっしゃるでしょう。

今後何かの壁にぶつかった時には

ぜひ彼女のこのエピソードを思い出してみてください。

今日お届けしたのは、

ボニー・レイットで「シング・コールド・ラヴ」でした。

3月25日(木)の名盤は…

今週は1970年代イギリスで、

ハードでグラマラスな独特のロックを生み出し、

人気の高かったバンド、モット・ザ・フープルを紹介しました。

1969年にデビューした彼ら、熱狂的なライヴは

観客がしばしば暴動を起こすほどで、ヴァイオレンス・ロックと呼ばれ、

高い評価を得ていたもののレコードはさっぱり売れず、

ツアーに出ても会場の修繕などの経費がかかり過ぎ、

微々たる収入しか手にすることができない日々に疲れ果て、

スイスのチューリッヒ公演を最後に解散を決意します。

ところが、そこに彼らのファンであるデヴィッド・ボウイが連絡してきて、

曲の提供とプロデュースを申し出、

最後のチャンスと再起をかけた転機となったのが1972年3月26日。

この時プレゼントされた曲が「すべての若き野郎ども」で、

このヒットにより彼らは一躍トップ・バンドに成り上がったのでした。

余談ですが、このボウイの作品の中でも1,2を争う名曲中の名曲を

いとも気軽に彼らにあげてしまったことをボウイ本人は相当後悔しており、

自らのライヴでは必ずといっていいほど”キメの場面”で歌っています。

一生の不覚でした。

さて、なぜそんな出来事の場所と日付まで有名なのかというと、

後に彼らが歌っているからです。

それが「モット・ザ・フープルのバラッド(1972年3月26日、チューリッヒ)」。

モット・ザ・フープル側はボウイの子分と思われることがイヤで、

ボウイは一番いい曲をやった後悔で、

たった1作で別れた後に作られた1曲のため、ボウイのことは触れていませんが、

心身ともにボロボロに疲弊しつつも過酷なツアーを続けなければならない

売れないバンドの悲哀を綴った名曲です。

“ロックンロールは負け犬のゲーム、

けれど心の奥のロックンロールフィーリングを消すことはできない”

という必殺の一行は、多くのロックファンの心を捕らえています。

お届けした曲は、

モット・ザ・フープルで「モット・ザ・フープルのバラッド」でした。

3月18日(木)の名盤は…

1980年代にイギリスを中心に全世界で大流行したのが、

エレクトロ・ポップ/シンセ・ポップと呼ばれる音楽でした。

一言で言うと文字通りにシンセサイザーをメインに作られた

ポップ・ミュージックですが、

これには大きく分けると2つの流れがあったと思います。

ひとつは電子楽器が好きで好きでたまらないオタク層による、

まず最初にシンセありきという音楽。

そして一方は普通のバンド編成でも演奏可能なものに

時代性を加味するためシンセを導入したもの。

今日紹介するティアーズ・フォー・フィアーズは

後者の代表と言ってもいいでしょう。

もともとネオ・モッズ系ロックンロール・バンドをやっていた

ローランドとカートの2人が始めたユニットで、そもそも2人はギターとベース。

エレクトロニクスに特別な思い入れがあったわけではないようです。

あるとすれば、

それは”今の時代にフィットする音楽を作りたい”という意気込み。

そのためにはシンセを大胆に取り入れてもかまわないという

スタンスだったのでしょう。

だからこそシンセを前面に押し出してもヒューマンな温かみが感じられ、

決して無機質にはならない独特のサウンドが出来たのです。

それが頂点に達したのが1985年の2ndアルバム「シャウト」。

ここでのエレクトロニクスと生身の肉体性とのバランスは

絶妙と言うより他はありません。

ものすごく細かい音作りが施されているのに適度に遊びもある点も見事。

もう少し生音の割合が増え、ライブ感とスケール感のアップした

4年後の3rdアルバムも素晴らしいのですが、

世界で1000万枚ものヒットとなった実績と、

ある種の箱庭感が強烈に80年代を代表する気がするので、

今日は2ndアルバムからの全英・全米とも

No.1を記録したこの曲をお送りしましょう。

改めて聴くと曲の良さと歌の上手さもハンパじゃないですね。

一口にエレクトロ・ポップと言っても実は深いんです。

3月11日(木)の名盤は…

“20世紀のアメリカで最も愛された歌手は誰か?”という投票が

10年ほど前に行われたことがありました。

その結果、男性歌手はフランク・シナトラ、

女性歌手はバーブラ・ストライザンドが選出されました。

この結果は日本人の我々からすると意外に思えるかもしれません。

20世紀、という100年のスパンがあるので、

ロック誕生以前から活躍しているシナトラが

エルヴィスを抑えたのは理解できなくもないのですが、

バーブラの正式な歌手デビューは1962年。

もっと長く活動する人もいますし、ロック世代で他にもっとヒット曲が多い人が

いそうな感じがするんです。

ところが。誰もいないんです。彼女より明らかに長期にわたって

第一線で活躍する女性も、彼女より実績がある人も存在しないんです。

アルバムは今までに50枚以上がゴールド・レコード以上。

ビルボードの記録ではヒット曲数、アルバム数、総売り上げともに

歴代女性歌手のNo.1、

彼女より上にはエルヴィスとビートルズがいるだけなんです。

グラミー賞10回受賞というのも驚異的。

日本には情報がうまく伝わってないだけなのですね。

それは存在があまりにも巨大だからかもしれません。歌手だけではないのです。

作曲家でもあり、女優でもあり、映画監督でもあります。

グラミーの他にオスカー2回、ゴールデングローブ賞11回、

エミー賞6回、トニー賞1回などなど。

要するに音楽、映画、舞台、テレビ、全てを制覇した、

アメリカン・ショービジネス界のスーパースターが

バーブラ・ストライザンドなのです。

音楽は彼女の一部でしかなく、しかもロック世代にもかかわらず、

いわゆるポップ・フィールドではなくミュージカルなどの

古き良き時代のエンターテインメントの流れを汲む歌が多いのが、

日本で今ひとつわかりにくい存在となっているのでしょう。

しかし、それ故にアメリカでは世代を超えた国民的芸能人のカリスマとして

愛されているのです。

今日お届けしたのは、1980年全米No.1ヒット曲「ウーマン・イン・ラヴ」でした。

3月4日(木)の名盤は…

先週まで2週にわたり”正式名義の重要性”について語りましたが、

今日は”では、それが明らかに間違っている場合はどうなるの?”

というエピソードを紹介しました。

例えば1950年代から60年代のソウルなどでは、

Aさんのアルバム10曲の中に異なる声の歌が1曲混じっている、

なんてことがよくあったのです。

後からそれは同じ会社のBさんのものだとわかります。

“そんなバカな”と思ってしまいそうですが、なにしろ50年近く前の話なのです。

で、会社が誤りを認めて速やかに差し替え訂正し、

Bさんの名義に復権した例もありますが、

何十年もそのまま放置されることも多いのです。

この場合は一般にはAさんの曲として取り扱うしかないのですね。

さて、以上は手違いによる事故ですが、

実は故意に別人に歌わせることもあります。

最も有名なのは名プロデューサー、フィル・スパクターが手掛けた

ザ・クリスタルズ、1962年の全米No.1ヒット「ヒーズ・ア・レベル」。

このオールディーズ定番名曲、歌ったのはダーレン・ラヴという人で、

クリスタルズは誰一人参加していないのです。

今やポップス・マニアなら誰でも知っている事実ですが、

しかし全世界何百万人の心に刻まれているヒット曲の記憶を

今さら書き換えることなどできませんよね。

やっぱりクリスタルズの「ヒーズ・ア・レベル」なのです。この先もずっと。

ですが、90年代になるとそうはいきません。

1990年、全米No.1を3曲連続して放ち、

グラミー賞最優秀新人賞を受賞したミリ・ヴァニリの2人は

すぐに賞を剥奪されました。実は2人はまったく歌っておらず、

影武者の歌に合わせての口パクだったことがバレたのです。

最初から”メンバー4人だけど表には2人しか出ない

史上初の腹話術歌手”とでも宣言しておけば面白かったのでしょうが、

それでは売れなかったかな?

後に影武者が”リアル・ミリ・ヴァニリ”を名乗って独立しましたが、

CDで聴く限り、ミリ・ヴァニリもリアル・ミリ・ヴァニリも同じという

変な具合になって、当然のように売れませんでした。

今日お届けしたのは、

後のリアル・ミリ・ヴァニリが歌っているミリ・ヴァニリの大ヒット曲

「ガール・ユー・ノウ・イッツ・トゥルー」でした。

2月25日(木)の名盤は…

先週は”後々おかしなことになるおそれがあるので、

正式なアーティスト名義を大切にしましょう”というお話をしました。

今週はそれをもう少し推し進めてみたいと思います。

例えばポール・マッカートニー。

彼はビートルズ解散後、基本的にはソロ活動といっていいのですが、

ポール&リンダ、ポール・マッカートニー&ウイングス、ウイングスと

編成に合わせて名義が変わります。

”ポール・マッカートニーで「心のラヴ・ソング」をお送りしました”というのは、

厳密に言えば間違いで、正解はウイングスなんです。

そのポールとも縁の深いエルヴィス・コステロ。

彼はもっと複雑で、ソロ名義の他にエルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ、

エルヴィス・コステロ&ザ・コンフィデレイツ、

ザ・コステロ・ショウという名義があって、それぞれバンド・メンバーが異なりますし、

さらにソロでもジ・インポスターという別名も持っていますし、

プロデューサーや作曲者としてはさらに

2~3のペンネームも持っています。

そういった作品が今ではコステロ名義の1組のベスト盤に

一緒くたに入っているんですね。

全て彼本人の仕事に間違いはないので、

そんなに目くじらを立てることでもないのかもしれませんが、

必ず何らかの意図があるからこそ名義が変わってくるわけですから、

そこは尊重されるべきだと思うんです。

今日紹介したのは特に複雑な曲、最初に出たのは彼の師匠にあたる

ニック・ロウという人のシングルのB面で、

名義はニック・ロウ&ヒズ・サウンド。

でもファンが聴けば最初の一声でコステロが歌っているのがバレバレ。

実際にコステロ&ジ・アトラクションズの演奏で、

でもどこにもクレジットはないのです。

しかしジャケットでニックがコステロのギターを持っている、という

マニアックなタネあかしがあるんです。お遊びですね。

けれど、お遊びにも意味があるのです。

大人がクソまじめに遊ぶのがロックンロールなのですから。

今日お届けしたのは、

ニック・ロウ&ヒズ・サウンドで「ピース、ラヴ&アンダスタンディング」でした。

2月18日(木)の名盤は…

東京スカパラダイスオーケストラと奥田民生の

8年ぶりのコラボレーションが話題で現在ヒット中の「流星とバラード」、

これは実は厳密に言うと正式クレジットはあくまでも

スカパラの単独名義なんです。

この事実はリアルタイムで今、体験している我々が、歴史の証人として

覚えておかねばならないことかもしれません。

“何を大げさな”と思われるでしょうが、

これは大きな問題となる可能性があるのです。

例えば、久保田利伸やビッグ・マウンテンなど、数多くのカバーを生む名曲

「Just The Two Of Us(クリスタルの恋人たち)」という曲があります。

オリジナルはジャズのサックス奏者、グローヴァー・ワシントンJr.の

アルバムの中で、ソウル歌手ビル・ウィザースを

ゲストに迎えて歌ってもらったもの。

出来が良かったので連名でシングル・カットしたら

全米2位の大ヒットになりました。

ですから、どちらかと言えばワシントンの作品なのですが、

ウィザースにとっても代表曲となったために、

彼の単独ベスト盤にも収録されています。

ですが、再発される度にこうしたクレジットは簡略化されてゆくもので、

現在のCDには詳しく載っていません。

それで初めてこの曲を知る若い人はウィザース単独の曲と

思い込んでしまうかもしれないのです。

さて、ジャズ/フュージョン界の大物、クルセイダーズが

初めて歌モノに挑戦してヒットした名曲が「ストリート・ライフ」。

ランディ・クロフォードを歌手として迎えたこの曲は、

シングル盤でも正式名義はクルセイダーズ単独でした。

ところが、ランディにとっても代表曲なので、

彼女のベスト盤にも入っています。

しかし現在のCDにはクルセイダーズの「ク」の字も

クレジットされていません。

完全にランディ・クロフォードの「ストリート・ライフ」になっているのです。

これは歴史の改ざんと言えるでしょう。

音楽に関わる私たちは、10年、20年後のためにも正確な情報を

届けなければならないと、改めて肝に銘じたいと思います。

今日お届けしたのは、ザ・クルセイダーズが、

ランディ・クロフォードをボーカルに迎えた

1979年の曲「ストリート・ライフ」でした。

2月11日(木)の名盤は…

今週はフィル・コリンズを紹介しました。

1980年代のスーパースターを5人挙げるとすると、

マイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナ、

ブルース・スプリングスティーン、そしてフィル・コリンズと答える人が

多いのではないでしょうか。

いろんな見方があるので断言はできませんが、

トップ10にこの5人が入っていることは間違いないでしょう。

その中でもフィル・コリンズはソロと並行して

ジェネシスのメンバーとしての活動や、数多くのセッション参加、

プロデューサーとしての仕事もこなし、

さらに俳優業までやるのですから、“世界で一番忙しい男”と呼ばれていました。

持ち前の旺盛なサービス精神から、依頼された仕事は

基本的に断らないという姿勢や、コミカルな三枚目キャラ、

そして重厚でシリアスだったジェネシスをどんどんポップ化したことなどによって、

硬派なロック・ファンからは何かにつけ批判されがちな彼ですが、

本当にそうなんでしょうか。

ジェネシスのメンバーはみんな上流階級出身で、

後から加入したフィル・コリンズは

「みんなどんな仕事の途中でも3時になると

紅茶を飲み始めるから驚いた」といいますし、

要するに彼だけがそんな習慣がなかった、つまり労働者階級だったのです。

エリック・クラプトンのプロデュースを担当したときには、

他のだれも怖くていえなかったダメ出しを平気でやったことは有名です。

また、多数のミュージシャンが出演するフェスなどでは、

自分達の出番以外にも、全員参加のセッションはもちろん、

フェスのための専用ハウス・バンドにも加わり、

延々と何時間もドラムを叩き続ける姿を何度も目にします。

本当に頭が下がります。

そんな無理がたたったのか、去年脊髄の手術を受け、

ドラムが叩けない状態になっているそうです。

(これからのリハビリである程度の回復の可能性はあるとのことですが、

あくまで今の時点では演奏はできないそうです。)

下層階級から成り上がり、大物相手にも言うべきことは言い、

体がこわれるまで演奏を続ける。

実はフィル・コリンズこそがロックなのかもしれません。

2月4日(木)の名盤は…

今週は1月14日に71歳でなくなったボビー・チャールズを紹介しました。

おそらく今までこのコーナーで取り上げた人の中でも一、二を争うほど

一般的には知名度の低い人だと思いますが、

日本の40代から50代のアメリカンロック、シンガーソングライターファンに

とっては絶対に忘れられない存在なのです。

ルイジアナ出身の彼は何と黒人音楽の名門

チェス・レコード初の白人歌手として1955年にデビュー。

残念ながらヒットは生まれず、歌手としては挫折しました。

ところが、彼のオリジナル曲を気に入った当時の大スター、

ビル・ヘイリーがカバーした「シー・ユー・レイター・アリゲイター」が

大ヒットするや、他の歌手からも作曲依頼が殺到し、

結果として1950年から60年代のロックンロール、

R&Bのヒット曲を数多く書くこととなります。

作曲家として成功を勝ち取ったのです。

しかし、彼はあまりにも欲がなく、ある程度の曲を書いた時点で

定期的に入ってくる作曲印税に満足して、隠居し、

完全に業界から消えてしまいます。

次に発見されたのは7年後の1972年。

南部のルイジアナから遠く離れた北東部のウッドストックに

移住していた彼は、そこに住むザ・バンドのメンバーなどと仲良くなり、

初のアルバムを発表したのです。

初期のロックンロールとは違う、素朴でしみじみと味わい深い、

全編に癒し効果の漂う、それでいて高い音楽性を誇るこの作品は、

当時日本で発売されず、輸入盤で口コミで話題となり、

“幻の名盤”ブームの火付け役ともなり、6年後の78年、

ついに日本盤が発売されるまでの経緯を体験したファンには

絶対的存在となったのです。

しかしここでも欲もなければ飛行機も嫌い、

人前で演奏するのも好きじゃないという彼はほとんど表舞台にでることもなく、

2ndアルバムは15年後、3作目は8年後と、その音楽性らしいマイペースでした。

忘れた頃に突然届けられる新作を楽しみにしていたファンの方にとっては、

それをもう受け取ることができないのは本当に残念ですね。

1月28日(木)の名盤は…

今週は1月13日に59歳の若さで亡くなった

「テディ・ペンダーグラス」を紹介しました。

1970年代前半はハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツのリード歌手として、

70年代以降はソロとして大活躍。

日本でも”テディペン”の愛称で人気がありましたが、

世界的に見ても70年代の10年間で、

最も高い人気と実績を誇ったソウル・シンガー何人かのうちの

ひとりであったことは間違いありません。

彼の場合は、長身でルックスも良かったんですが、

何よりもその男性臭いバリトン・ヴォイスで雄大かつセクシーに歌う声が

黒人女性たちの憧れの的でした。

歌の内容もセクシー一辺倒で、ライヴではなんと女性から

下着が無数に投げ込まれるほど、まぁ、モテたんです。

プレイボーイな逸話もたくさんあります。

さて、人気絶頂の1982年、彼は交通事故を起こし、

下半身不随となってしまいます。

すると、あれだけキャーキャー言ってた女性達は手のひらを返したように去り、

彼の周りには2人の子どもと、女性問題で泣かせ続けてきた

奥さんだけしか残りませんでした。

大切なものに気付いた彼は車椅子に乗った歌手としてカムバック、

セクシー路線をやめ、家族への感謝や命の喜びを歌うようになったのです。

正直言って事故後の彼の歌は元気がなく、ハリもツヤも衰え、

痛々しささえ感じるところがあるのですが、まじめにひたむきに歌う姿は

全盛期とは異なる感動があります。

歌で富と名声を勝ち取り、歌で道を踏み外しかけ、歌に救われた59年の人生は

根っからのソウル・シンガーに相応しいものだったのかもしれません。

今日は、全盛期の1979年の大ヒット曲「ライトを消して」をお届けしました。

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