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名盤 IN A DAY

1/20「ザ・ブームタウン・ラッツ」

今週はアイルランド出身のパンク/ニューウェイヴバンド、

「ザ・ブームタウン・ラッツ」を紹介しました。

1978年のシングル「ラット・トラップ」が全英No.1を記録、

これはアイルランド人として史上初の快挙でした。

そして2曲目の全英No.1となったのが翌1979年の「哀愁のマンデイ」。

日本でも有名な名曲ですね。

ほぼピアノと歌だけのこの曲は彼らの中でも異色で、これだけ聴くと

“どこがパンクなの?”と思うかもしれませんが、内容は過激です。

これはその年の1月29日、アメリカのサンディエゴで起きた、

16歳の少女が小学校でライフルを乱射し、

合計11人が死傷した痛ましい事件をもとに書かれました。

取り調べで理由をきかれた少女が“I don’t like Mondays.”と

答えたというものです。

このパンクスにとっては痛いほどよくわかるものの、

決して越えてはならぬ一線を越えてしまった少女の心情を

文学的に綴ったのがこの曲なのです。考えてみればすごいですよね。

今の日本で実際の事件をモチーフに曲を作っても、

ヒットどころかON AIRさえできないでしょう。

実のところアメリカでは西海岸で地元感情に配慮して

放送禁止されたこともあり、ほとんどヒットしていません。

ところがイギリスではとんでもないことになったのです。

イギリスは私たちが思う以上に音楽市場が小さく、

100万枚ヒットは歴史上数えるほどしかありません。

ビートルズの何曲かとウイングス「夢の旅人」くらいしか

記録していない100万枚を「哀愁のマンデイ」も突破。

ブームタウン・ラッツは頂点に登りつめたのですが、

その栄光は長く続きませんでした。

パンク精神で次々と新しいスタイルに挑戦したのに

ファンが追いつかなかったこともありますが、なにより彼らは

イギリスメディアに異常に嫌われたことが大きかったと思います。

まあ、彼らもパンクらしい生意気な態度・言動が多く、

パジャマ姿でテレビ出演したりして自業自得な面もあるのですが、

それにしても、何をやっても袋叩きにされました。

そこには“神聖なビートルズ(とポール)しか達成していない

ミリオンをアイリッシュ訛りの汚いパンクスなんかにやられたのは恥だ”

というような一種の差別意識が働いたのは否定できないでしょう。

その根底にはイギリスとアイルランドの政治的対立の

長い歴史が横たわっていることも付け加えておきます。

今日お届けしたのは1979年の曲「哀愁のマンデイ」でした。

1/13「ジャパン」

今日は「ジャパン」を紹介しました。

1978年にデビューしたイギリスのニュー・ウェイヴ・バンドで、

ここ日本ではデビュー直後からそのバンド名の親しみやすさと

奇抜かつ美形のルックスで女子中高生を中心に人気爆発、

それは凄まじいものでした。

1980年前後の日本のティーンズに人気のあった洋楽バンドといえば

クイーン、キッス、ジャパンが3トップでしたが、女子人気は

若いジャパンが圧倒的でした。ちょうどクイーンが30代になった頃、

入れ替わるようにアイドルの座についたのが彼らだった、という感じです。

ところがアイドル人気だけではなかったのがジャパンの凄いところ。

10年後の90年代に入って、新たな事実が判明するのです。

X JAPAN、GLAY、BUCK-TICK、LUNA SEA、ソフトバレエ、グラスバレー、

デルジベットなどといった日本のバンドの多くが、

思春期にジャパンの洗礼を受けていたことを公言しており、

実は男子もしっかり聴いていたことが裏付けられたのです。

それどころか、この“ジャパンに衝撃を受けてバンドを始めて

プロになった率”の高さは尋常じゃないでしょう。

こればっかりはクイーンやキッスをはるかに

上回っているのではないでしょうか。

少年の手に楽器を取らせる何かが彼らの

音楽にあったのは間違いありません。

そんな彼らですが、本国イギリスではさっぱりで、ようやくまともに売れたのは

1981年のラスト・アルバム「錻力の太鼓」だけ。

“こいつら何者だ?”と気づいた時にはすでにバンドは解散していたということで、

逆に伝説のバンドとなっています。

そのラスト作について、“制作中に会社からも事務所からも、

これが最後だ、と通告されて、

おかげで誰からも文句言われず自分たちの好きなように作ったら

皮肉にも最も成功してしまった“と語っていたベーシストのミック・カーンが、

先週1月4日、肺ガンのため亡くなりました。

メンバーの中で音楽的には最も高く評価され、

フレットレス・ベースの独特なサウンドで多くのリスペクトを集めていた

彼のご冥福をお祈りいたします。

今日お届けした曲は、1981年の曲「ヴィジョンズ・オブ・チャイナ」でした。

マユ毛のない赤い髪でカニ歩きしながらベースを弾く

彼の姿を思い出しながら、ベースラインを中心に耳を傾けてみてください。

1月6日(木)の名盤は

2011年のこのコーナーは

「エコー&ザ・バニーメン」からスタートしましょう。

1978年にリヴァプールで結成、最初ドラマーが見つからず、

エコー社製のリズム・マシーンが正式にメンバーだったことから

バンド名がつけられました。

1980年代前期から中期にたいへんな人気を誇った

ニュー・ウェイヴ・バンドです。

明らかにパンクを通過した新感覚のサウンドでありながらも、

ビートルズ以来伝統のマージー・ビートを継承する香りと、

60年代アメリカ西海岸のドアーズを思わせる

サイケデリック・フィーリングを持ち合わせており、

多角的な支持を受けてのブレイクだったわけですが、

ここ日本ではちょっと事情が違います。そんなもんじゃなかったのです。

この時代に青春を過ごした日本のニュー・ウェイヴ少年少女にとっては

格別な思い入れのあるバンドだったのです。

ウソだと思うなら、現在40代半ばのロック・ファンに聞いてみてください。

彼らの名前を出したとたん、“そうそう、エコバニ!”と短縮形で、

上気した顔で返ってきますから。

それはなぜかといえば、当時の状況を思い出す必要があります。

1981年から85年頃のイギリス・ロック・シーンはエレポップ全盛、

ギターの音なんかほとんど聴こえてこなかったのです。

ベテラン組やアメリカ勢、ヘヴィ・メタルはありましたが、

イギリスの新しいギター・ロックを求めるファンは聴く音楽が

なかったんです。

ネオアコも出始めましたが、エレキ・ギターではありません。

実はイギリスではインディからギター・バンドが出て来ていたのですが、

日本ではなかなか情報が入手困難で、よくわからなかったこの時代、

一応メジャーで日本国内どんな田舎でも普通にレコードが買える

エレキ・ギター・バンドは、

極論すればエコバニとU2しかなかったんですね。

しかなかった、というと消極的な感じがするかもしれませんが、

さっき言ったとおり実力は折り紙つきでしたから、

ファンの期待を一身に集めたのは当然のことでした。

本当にかけがえのない存在だったのです。

この数年後に巨大な怪物、ザ・スミスが登場すると、

入れ替わるように失速してしまったのは残念ですが、この“バニーメン”、

”うさぎ男たち“のおかげでイギリスロックからギターの火が

途絶えることがなかったというのは決して大げさな話ではないのです。

お届けしたのは1983年の曲「カッター」でした。

12/23 「ザ・キンクス」

今日はビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フーとともに

“イギリス4大バンド”と呼ばれるザ・キンクスを紹介しました。

日本ではまずピンとこないでしょうが、イギリスはもちろん、

ヨーロッパ諸国やアメリカでもこの4バンドの評価はほぼ同格であり、

同じようにリスペクトされているのです。

それどころか、1970年代後半に登場したパンク・バンド達、

彼らは既成のロックをすべて否定し、

ビートルズやストーンズさえ古臭いと切り捨てたにも関わらず、

キンクスとフーだけは“ゴッド・ファーザー・オブ・パンクス”として

尊敬していたほどなのです。と言うと、すごく激しく荒々しいロックンロールと

思われるかもしれませんが、もちろんそういった曲も得意ですけど、

もう一つの側面、ロンドンの市井の人の暮らしを面白おかしく、

皮肉を込めつつも温かい眼差しで描く物語こそ魅力です。

そんな彼らがパンク旋風真っ只中の1977年にリリースした楽曲が

「ファーザー・クリスマス」。

激しくスピード感溢れるビートに、パンク勃発の社会的背景である

失業問題を絡めた、パンクを意識したようなこのクリスマス・ソングは

こう歌っています。

子どもの頃はサンタを信じてた/正体はパパだと知ってたけど/

靴下をぶら下げて喜んでた/この間その僕がサンタ役になった/

デパートで立ってたらガキどもに襲われてしまったよ/

暴れながら連中は言うんだ/

サンタのおっさんカネくれよ/くだらないおもちゃなんかいいから/

とっとと現金出さないと痛い目にあうぜ/

おもちゃなんか金持ちの子どもにくれてやれ/

カネがダメならうちの父ちゃんに仕事をくれ/

このままじゃ食えないんだよ/

それもダメならマシンガンをくれ/町中みんな震え上がらせてやるから/

ねえ、サンタのおっさんカネ、カネ、カネ/

いや、まったくひどい目にあったけど/

どうぞ皆さん楽しいクリスマスで満ち足りたひとときを/

だけどあなたがワインを飲んでる間にも/

何もないイヴを過ごす子供たちがいることを忘れないで

どうでしょう?まさにキンクス流パンクといった感じですが、

パンクを意識しつつも立脚点の違いを見せつけたように思えます。

感情を直接訴えるのではなく、

やや斜めからユーモアで斬るほうが有効な表現だと言わんばかりです。

“パンクの元祖と持ち上げてくれるのは嬉しいけど、

キミ達にこんな味は出せるの?”という余裕の笑みが見えそうです。

そう思えば、この歌の中の暴れる子どもたちって

パンク・バンドそっくりですよね。

キンクスからしたら彼らもお子ちゃまにしか見えなかったのかもしれませんね。

12/16 クイーン

今日は「クイーン」を紹介しました。

クイーンといえば、1970年代に青春を送った

日本のロック・ファンにとって”特別“な存在で別格であり続けた

偉大なバンドですが、一言で表すと、アイドルでありヒーローであり、

要するにスターだったと言うしかないでしょう。

古今東西、“男性からの評価”と“女性による人気”を両立させ、

しかも長続きしたロック・バンドはクイーンしかいないのです。

そしてそれを支えたのは、言葉は悪いかもしれませんが、

“お客様は神様です”的な強烈な芸人根性でしょう。

ファンの要望には全部応えますよ、でも古いファンも絶対に裏切りません、

というような、クイーンらしさを決して捨て去ることなく音楽性を拡大する姿勢、

と言い換えてもいいと思います。

メンバー4人中3人がリード・ヴォーカルをとれ、

全員がシングル・ヒット曲を書けるにもかかわらず、

誰一人アート指向に走ることなく、

下世話ともいえる大衆性にとどまったことも奇跡的。

そのためにも政治的・思想的メッセージは音楽に込めないで

娯楽に徹したのもポイントでしょう。

そんな中、一番人気の「ボヘミアン・ラプソディー」は珍しく、

アフリカ生まれでインド育ち、

ゾロアスター教徒でゲイという、物理的にも精神的にもボヘミアン、

つまり放浪者であったフレディの心情を吐露したシリアスな内容と、

アカペラ、バラード、オペラ、ハード・ロックを融合させた

アート指向の爆発した名曲と言われています。そうかもしれません。

ですが、心情を深読みせずとも物語としてよく出来ていますし、

アートと呼ぶにはオペラ部分の「ガリレオ~」という虫のような

変な声はありえないでしょう。

それに本当にアート指向ならばこの時代ですから、

20分の大作に仕上げてもいいところを

6分にまとめた大衆性にこそ価値があると思うんです。

“エンターテインメント以上に意味のある音楽はない“と言い切る

クイーンらしさに溢れた名曲ではないでしょうか。

今日お届けしたのは、1975年、全英9週連続1位、全米9位の曲、

クイーンで「ボヘミアン・ラプソディー」でした。

12/9「サム・クック」

今日はレイ・チャールズ、ジャッキー・ウィルソン、

ジェイムス・ブラウンと並んで、ソウルのパイオニア、

ビッグ4のひとりと称され、

その中でもアメリカの黒人音楽の長い歴史において後輩シンガーへ

与えた影響の大きさでは他の追随を許さないことから

“ミスター・ソウル”と呼ばれる「サム・クック」を紹介しました。

例えば、60~70年代に活躍したソウル歌手に“好きな歌手は?”と聞けば、

10人が10人とも“サム・クック”と答えるほど。

特にオーティス・レディングが心酔していたのは有名な話です。

ただ、何故彼がこれほどまでに愛されるのか、

特にここ日本では解りにくかったのです。

ゴスペル界の大スターが世俗に転じて成功した最初の例であるとか、

ソウル音楽を確立させたこと、ほぼ全ての曲を自分で書いており、

その作曲能力が素晴らしいことなど、それらを十分に認めた上で、

“でも肝心の歌手としての力量はどうなのだろう?”という

疑問があったのも事実だからです。いえ、声質はとても美しいし、

歌い回しもすごくテクニカルで、うっとりするほど上手い歌手ではあるんです。

ただ、時代背景から仕方ないのでしょうが、

アレンジや歌い方が黒人ぽくなく、かなり白人向けに寄り過ぎている

曲が多く、ソウルならではのラフでダイナミックな激しさが

足りないように思われていたんですね。

加えて彼は1964年に若くして亡くなっていて、

日本でオーティス他のソウル人気が高まった頃には既に

この世に存在せず、情報がほとんど入手できなかったことも

不利に働きました。そんな彼の評価が一変したのは

死後20年以上経た1985年。1963年のライブ音源が発掘されたのです。

生前にもライブ盤はあったのですが、

それは白人向け超高級クラブでのもので選曲も歌い方も

ポピュラー歌手然としたものでした。(それでも十分素晴らしいのですが)。

ところが、こちらはハーレムの黒人クラブでのもの。

これを聞いて世界中がブッ飛びました。白人が一人もいない会場で

サムがどんなパフォーマンスを見せていたか。とにかく凄いです。

それまでの音源が、“柔”のサム・クックとすれば“剛”のサム。

これを聴けば、“柔”の部分の凄みもより解かるようになります。

やっぱり“ソウル・シンガー”としても超一流だったのです。

オーティスやロッド・スチュワートなどが“とにかくサム・クックが1番”

と言うのも大納得。このライブでは曲間のMCがまた最高。

MCからもう既に歌になっています。

さて、彼が33歳の若さで亡くなったのは1964年12月11日。

そしてこれは射殺されたもので、相手は正当防衛の無罪でした。

人種差別がまだまだ横行していた時代、

黒人社会の英雄だったサム・クックだけに様々な

疑惑が囁かれていますが、真相は今なお謎に包まれています。

今日お届けした曲は「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー」でした。

12/2「ラヴァーボーイ」

今日は1980年代に人気の高かったカナダ出身のロック・バンド、

「ラヴァーボーイ」を紹介しました。

カナダのロック、といってもピンとこないかもしれませんが、

そこはアメリカと地続きの隣の国ですから、1960年代からニール・ヤング、

ステッペンウルフ、ラッシュなどの優れたアーティストが多数活躍しています。

最近だとシンプル・プラン、ニッケルバックなんかもカナダ出身ですね。

英語とともにフランス語も公用語として認められていることや、

アメリカと違って黒人の数が少ないことの影響で、

独特のカナダ流サウンドを感じることも多くありますが、

一般的にはアメリカによく似たロックと言っていいと思います。

ラヴァーボーイも言われなければアメリカのバンドと思う人がいても

不思議はありません。

特に曲作りが上手いとか演奏が上手いとか、

メガ・ヒットを記録したというわけではなく、ロック史に残る名バンドというよりも

どちらかと言えばB級バンドかもしれませんが、80年代前期から中期の、

“あの時代”の明るくポップで重すぎないハードロックを愛するファンには

忘れられない存在です。

ボン・ジョヴィが彼らのファンで影響を受けたという話もあり、

そういえばよく似ている部分もありますね。

ミッキー・ロークの映画「ザ・レスラー」で、主人公が

80年代のハードロック/ヘヴィメタルでノリノリになりながら、

“この時代が最高だ。それをあの忌まわしいニルヴァーナの登場で

メチャクチャにしてくれた”というようなことを言うシーンがあるんですが、

そう思っている中年のアメリカ人は意外と多いみたいです。

そんなファンにはまさにツボな曲がこれかもしれません。

実は当時チャートでは全米29位と、大ヒットではないんですが、

“みんな週末のために働いてるんだ”という内容と

FMフレンドリーな曲調で、今なお人気のロックンロールです。

今日お届けしたのは1981年の曲「それ行け!ウィークエンド」でした。

11/25「フィービ・スノウ」

今日は1970年代に主に活躍した女性シンガー・ソングライター、

「フィービ・スノウ」を紹介しました。

黒人とユダヤ人の両親を持ち、ニューヨークに生まれ、

ニュー・ジャージーで育った彼女。

肌の色とアコースティック・ギターを弾き語る姿は、まさに15年早かった

トレイシー・チャップマンとイメージすれば分かりやすいかと思います。

実際、トレイシー・チャップマンはフィービ・スノウからの影響を自ら認めています。

シンガーソングライターといえばフォーク系かカントリー系の素朴な音楽、と

連想する人も多いと思いますが、そんな単純なものでは決してなく、

ブームの全盛期だった1970年代はさまざまな個性をもった才能が数多く登場し、

ある者はボサ・ノヴァを、またある者はラテン音楽をという具合に、

いろんな音楽を取り入れ、組み合わせたサウンドを生み出していました。

ミクスチャー・ロック、なんて言葉が誕生する20年も前から

ロックはミクスチャー音楽だったのです。

さて、フィービ・スノウの場合は、フォークとブルースとジャズが3本柱で、

さらにゴスペルやソウル、ファンクなどの要素が混じり合っています。

要素の数の多さも群を抜いていますが、そのバランスも絶妙です。

似たような人は何人かいますが、ジャズに寄るでもなく、ブルースが濃いでもなく、

3本柱がほぼ均等に配合されているのは、彼女しかいません。

その結果、それまでありそうでどこにもなかった不思議な音楽が生まれました。

不思議といえば彼女の歌声。

シャウトしたり情感たっぷりに歌い上げるわけではないのに、

人の心にすーっと入り込んでくる魔法の歌声というか。

それは例えるならば、人が本当に悲しい時、

泣き叫ぶのではなく呆然と立ちつくして思わずつぶやく声だったり、

苦しい状況の下で悩みながらも独り言でふっと冗談が口をつき、

それに独りツッコミを入れる時の声だったり、

そんな“素”の声に近いのかもしれません。

今日お届けしたのは、1974年の曲「ポエトリー・マン(詩人)」でした。

11/18「ニューオーダー」

今日はイギリス マンチェスターを代表する名バンド、ニュー・オーダー、

1983年の大ヒット、「ブルー・マンデイ」を紹介しました。

現在のテクノやハウスといったクラブ・ミュージックの源となった名曲であり、

一説によると全世界で最も売れた12インチ・シングルとも言われています。

今なおダンスフロアを盛り上げる定番中の定番ですが、

実はこれ、悲しい歌なのです。

もともとジョイ・ディヴィジョンと名乗っていた彼ら、

2ndアルバムが完成し、明日から初の全米ツアーに出発という矢先に、

リーダーでボーカリストのイアン・カーティスが自殺してしまいます。

希望から絶望へ突き落された残されたメンバーは途方にくれながらも、

「新しいオーダー」で活動を続けるしかなかったのでした。

およそ3年後、ようやく彼の死と向き合い、歌にしたのがこの曲。

彼の死を知らされた「憂鬱な月曜日」についての歌です。

生き延びるためにも、彼を忘れないためにも、

泣きながら死ぬまで踊り続けるしかないのです。

お送りした曲は、ニュー・オーダーで「ブルー・マンデイ」でした。

11月11日(木)の名盤は…

今日は「ファンカデリック」を紹介しました。

”このグルーヴの下では肌の色も貧富格差も思想の違いも関係なく、

人類はひとつ”というメッセージが込められています。

そのメッセージの通り、強力なファンク・ビートに身を任せてみましょうか。

お届けした曲は1978年発表の代表曲

「ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ」でした。

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