« 旅するこころ | メインページ | アーカイブ | スタッフからのメッセージ »

名盤 IN A DAY

11月12日(木)の名盤は…

“ロックはブルースから生まれた”とよく言われます。

半分正解です。

ロックは黒人音楽であるブルースを父に、

白人音楽であるカントリーを母に生まれました。

この辺りの詳しい話は、日を改めてじっくりしたいと思いますが、

ロックのルーツをたどっていくとブルースに着くのは間違いありません。

ロックを演奏するのは基本的に白人がメインなので、

もともとカントリーは自分達のルーツとして

持っているので問題はないのですが、後追いで学習したブルースに対しては

長い間コンプレックスを持っています。

極論するならば、本当はブルースをやりたいのだけれど

黒人みたいに上手くできないので

得意な白人音楽の要素を加えて再構築した”ぎこちなさ”こそが

ロックの面白さなのですが、

やはりミュージシャンとしてはそうもいかないのでしょう。

ブルースに始まりR&B、ソウル、ファンク、ディスコ、ヒップ・ホップ、ハウスなどと、

黒人音楽の新しい動きがある度にロックはそれをマネし、

取り入れてきたのは劣等感の表れでした。

でも本当はそれらの新しい音楽は白人音楽に影響を受けた

黒人音楽だったのに気付く人は少なかっただけなのです。

1980年代にロバート・クレイという黒人ブルースマンが登場しました。

低迷するブルース界の救世主として黒人側からも期待の大きかった人ですが、

この人の音楽がまぎれもないブルースなのに、

何かとってもロックっぽかったのです。

それもそのはず、彼は少年時代ビートルズに憧れてギターを手にし、

ロックを聴いて育ったのでした。

ブルース直系ではなく、ブルースに憧れた白人ロッカーから

影響を受けた黒人ブルースマン。

ロバート・クレイの登場と、それが白人、黒人両方のファンから支持され、

ブルースとして破格の大ヒットとなったことで

コンプレックスから解放されたロッカーはとても多かったのです。

今日お届けした曲は、ザ・ロバート・クレイ・バンドの

1986年全米22位の曲「スモーキング・ガン」でした。

11月5日(木)の名盤は…

長く活動を続けるミュージシャンは人気の浮き沈みを避けられません。

10年、20年と第一線に留まり続けることは

ほとんど不可能に近いものがあります。

結局、人気が下降してきたときに「次の一手」を打つことができた人達が

生き残ることができるのでしょう。

今日は、そんなバンドの紹介です。

アメリカが生んだ偉大なるバンド「シカゴ」。

1969年にデビューし、当時珍しかったブラス(ホーン)セクションを

大胆に取り入れたダイナミックなサウンドと政治的メッセージの強い歌詞で、

一気にシーンをリードする存在となった彼ら。

1970年から77年にかけて発売したアルバム10作連続で

全米トップ10入りさせ、名実ともにトップ・バンドとして君臨するのですが、

その後、不幸な事故やトラブルが続き、

1980年~81年頃はハッキリと落ち目になってしまいました。

追い詰められた彼らはマネジメントを代え、レコード会社も移籍し、

さらにかつてのライバル・バンドのリーダーを引き抜き、

新体制で再起を計ります。

そこへ登場したのがデヴィッド・フォスター。

今でこそヒット・メイカーの大物プロデューサーとして

泣く子も黙るフォスターですが、当時まだ駆け出しであり、

シカゴ側から見ればただの若僧に過ぎません。

その若僧が”ブラスを思いっきり引っ込めてシンセを

前面に出しましょう”などと言うのですから、

バンドは烈火の如く怒ります。

”ブラス・ロックのシカゴがブラスを抜いてどうすんだ?

せっかくの再出発を台無しにする気か?”

というわけです。しかしフォスターは冷静に、シカゴには後がないこと、

再出発だからこそ大胆に攻めること、

自分が責任をもって音を若返らせることをメンバーに説きました。

“僕はシカゴを聴いて育ったんです。

シカゴがなくなったら一番悲しいのは僕なんです“。

こうして生まれたのが「素直になれなくて」。

期待通りに久々の全米No.1を獲得。

大きくイメチェンしましたが、ここから第2期の黄金時代が始まったのでした。

「次の一手」に成功したのです。

10月29日の名盤は…

今週は1980年代にイギリス、アメリカ、そして日本でも

ヒット曲をたくさん放ったユーリズミックスを紹介しました。

作曲とほとんどの音作りを担当するデイヴ・スチュワートと、

作詞とボーカルのアニー・レノックスによる男女デュオ・ユニット。

実はアルバムごとにサウンドは変化して、柔軟で幅の広い、

音楽性豊かな人たちなのにも関わらず、

一般にはエレクトロ・ポップのイメージが強いのは、

デビューがあまりにも衝撃的だったからでしょう。

2人しかいないことを逆手にとって

全編打ち込みのテクノ/エレクトロ・ポップ・サウンドは、

他にも先駆者はいましたが、かなり早いほうでしたし、

その完成度の高さや洗練の度合いはトップ・クラスの高水準でした。

さらに他のグループと大きく異なっていたのがアニーの歌でした。

だいたいこの手のテクノ・サウンドにはワザと加工してロボット声にしたり、

加工しないまでもクールで無機質・無表情な歌声を合わせるのが

常套手段でしたが、

彼女は実にソウルフルで肉感的な生々しい歌だったのです。

一見ミスマッチな組み合わせが、圧倒的に新しいパターンでした。

おそらくはイギリス白人からしか絶対出てこない発想でしょう。

でも面白いのが、この時代はどちらかというと

アメリカでのほうが人気が高かったんです。

イギリスならではの発想だからこそアメリカで珍しかったのでしょうか。

このグループは不思議なことにイギリスでヒットする曲と

アメリカでヒットする曲が分かれるんです。

一番有名な「ゼア・マスト・ビー・アン・エンジェル」、

イギリスでは1位ですが、アメリカでは22位。

不思議といえばこの二人、もとは恋仲にあったのですが、

お互い別の人と結婚してもコンビはずっと続いています。

10月22日の名盤は…

今週は先日亡くなった加藤和彦さんを追悼したいと思います。

まずは何と言ってもザ・フォーク・クルセダーズ

~サディスティック・ミカ・バンド~ソロ活動と続く

音楽作品そのものの革新性です。

これはそのままフォーク~ロック~お洒落なアダルト・ポップスと

対応するわけですが、常に日本の音楽の最先端を走るものでした。

60年代から80年代まで、邦楽を進化させたのは

彼だったと言っても過言ではありません。

中でもミカ・バンドは非常にカルト的な支持ではあったものの

海外で高く評価されました。

35年も前に本来の意味で海外進出を果たしていた

日本のバンドがいたことを忘れてはなりません。

そしてその際に本場から学んだ様々なノウハウが日本の音楽業界全体を

底上げすることになります。

日本のエンジニアやディレクターが知識として持ち合わせていなかった

新しい機材や録音法、音作りのテクニックなどを彼だけが知っていて、

それを惜しげもなく広めていきました。

さらに日本のコンサート音響に不満を持った彼は自費でPA会社を設立、

これぞ日本初の本格的PAシステムだったのです。革命的な事件でした。

ミュージシャンはもちろん、裏方の人も、そしてファンも含めて音楽に

関わる人はすべて加藤和彦さんのおかげでコンサートを良い音で

楽しむことができるようになったことを、

ぜひ覚えておいて下さい。

さらに、世界中の音楽を聴いて勉強していた彼はレゲエや

その他のワールド・ミュージックをいち早く日本に紹介してきました。

そんないろんな意味で日本の音楽界に偉大な足跡を残した加藤和彦さん。

感謝してもしきれませんね。

10月15日(木)の名盤は…

今日はロッド・スチュワートを紹介しました。

ロッドというと近年は音楽の人というよりも、

もしかしたら女性スキャンダルの多い芸能人的なイメージを

持っている方が多いかもしれません。

でも”スケールの大きなイギリス最高のロックンロールシンガー”ということ

忘れるわけにはいきません。

彼の歴史を振り返ってみますと、名前が知られるようになった

1968年から1973年まで。

この時代はイギリスどころか世界中でも無敵な歌を聴かせてくれたのですが、

同時に自らのソロとフェイセズの一員としての年間2枚の

アルバム制作とツアーという過酷な日々で、

さらに彼は明日も考えないほど全身全霊を使った歌い方でしたから、

喉を消耗しきってしまったのでしょう。

スターとしての成功の頂点はこの後にやって来るのですが、

その時はすでにいわゆる全盛期の歌い方からするとロッドにしては、

歌手としてはやや落ちるという状態でした。

それを認めたくなかった部分もあるでしょう。

ツッパッって派手に振舞っていたように見えたのが1975年から80年頃。

最初に挙げた「芸能人的イメージ」というのは

この頃のものじゃないでしょうか。

それだけ人気はピークだったのですが。

1980年から90年代は一番良かった頃に比べると、

悪く言えば何となく小手先でごまかしているような歌になり、

人気も落ちてきます。

けれども、21世紀になると肩の力が抜けた味わい深い歌が

別の魅力を聴かせてくれるようになりました。

あくまで想像ですが、やっと昔のようには歌えない自分を

認めることができたのではないでしょうか。

地味ですが、ひたむきさがあります。

それが伝わったから25年ぶりの全米1位やグラミー初受賞に

つながったように感じます。この路線の今後が楽しみです。

さて今日は1980年の曲ですが、

この時代でも意地を見せた熱唱であり、

黒人音楽に傾倒しながらもイギリス伝統のトラッド風味を決して忘れない

彼の持ち味がよく出た名曲

「今宵焦がれて」をお届けしました。

10月8日(木)の名盤は…

今日は「スリー・ディグリーズ」を紹介しました。

1970年代に活躍したイメージが強い彼女たちですが、

結成されたのは古く、1963年です。

メンバーは15~6人ほど出入りしていますが、

女性トリオの形は崩すことなく、“最も長く活動している女性3人組

ボーカル・グループ”としてギネス・ブックに認定されています。

彼女たちの全盛期といえば何といってもメンバーが、

フェイエット、シーラ、ヴァレリーの3人に固定された

1967年から76年のおよそ10年間。

中でもフィラデルフィア・インターナショナル・レコードと契約していた

1973年から1975年は全米1位を獲得するほど波に乗っていました。

しかし、本国アメリカでの活躍はここまで。

これ以降は日本とヨーロッパでのみの人気者になります。

それにしても当時の日本での人気ぶりは凄まじいものがありました。

毎年のように来日し、普通にテレビ番組にも出演していましたから、

お茶の間への浸透度はかなりのものでした。

日本にソウル音楽を普及させた最初の功労者は間違いなく、

スリー・ディーグリーズです。

彼女達が日本で長く愛されたのはアメリカでも人気があった

全盛期に何度も来日して、

日本制作のレコードをたくさん残していることも大きな理由でしょう。

その中には「にがい涙」のような日本語で歌われる

歌謡曲風のものもありましたが、

今日お送りした1974年の曲、「ミッドナイト・トレイン」は、

作曲が細野晴臣、そして松本隆が英語の歌詞を書いた「ミッドナイト・トレイン」。

演奏も細野晴臣を中心としたティン・パン・アレーが担当の

純和製ソウル(?)ですが、英語の歌詞ということもあって、

とても国産とは思えません。

日本の音楽もここまで来た!という意味でも重要な名曲です。

なおスリー・ディグリーズ、なんと現役で、

年末には来日公演も予定されています。

ギネス記録は更新中なんです。

しかも全盛期周辺のメンバーが2人も残っているんです。すごい。

10月1日(水)の名盤は…

10月3日は中秋の名月。

今日は月にまつわる名曲を紹介しました。

今日選んだのはザ・ウォーターボーイズ、

1985年のスマッシュ・ヒット、「月の想い」です。

スコットランド出身のマイク・スコットを中心にロンドンで結成された

ウォーターボーイズですが、メンバー交代が激しく、

バンドというよりもマイクのソロ・プロジェクトと考えたほうが

いいかもしれません。

そして彼の音楽の特徴は、アルバム1~2枚毎にどんどん変化することです。

もちろん、スピリチュアルで文学性の高い歌詞と、

深みのある昂揚したボーカルという核はまったく変わらず、

一本筋が通っているのですが、それを包み込む表現法が変わるのです。

というのも、録音場所が変わるからです。

スコットランドに始まり、

ロンドン(イングランド)~アイルランド~ニューヨーク(アメリカ)。

これは他の大多数の人たちのように気分を変えるために録音スタジオを変えてみる、

というものとは違うんです。

彼は根っからの旅人であり、新しい音を求めて完全に移住し、

その地で1~2年生活することによって、

その場所特有の息吹や空気感をとらえ、その地の感動を言葉にし、

それを表現するのに最もふさわしい音、すなわち地元の音で

完成させるというスタイルの表現者なのです。

“孤高の吟遊詩人”と呼ばれるのも納得の、あまりにも不器用で

あまりにも誠実な彼の音楽に対する姿勢は、

多くのファンから共感と信頼を得ています。

この曲はロンドン時代のもので、歌詞は文学的に高度で

幾通りもの解釈ができそうですが、訳詞を読まなくとも、曲調やビート、

そして感情のこもった歌声、そして誰でも聴き取ることのできるサビの1行、

”You saw the whole of the moon”(君は満月を見た)

これだけで頭の中に情景が広がってきませんか?

言葉の壁を越えて風景を見せてくれる、

とっても素敵な名曲だと思います。

9月24日(木)の名盤は…

先週は日本では一発屋と思われがちな悲劇のバンド、

ビッグ・カントリーを紹介しましたが、

今週紹介したユニットもそれに近いかもしれません…。

今日はザ・システムのお話です。

1982年にニューヨークで結成された2人組ユニットで、

キーボートとドラムを中心とした白人マルチ・プレイヤー、

デヴィッド・フランクとボーカル担当の黒人、ミック・マーフィ。

ソウル、R&B大好きな白人とロック好きな黒人というチグハグで

ユニークなコンビが独特のサウンドを生み出します。

2人で曲を書き、2人でセルフ・プロデュース、

ごくわずかな味付け程度に外部ミュージシャンを入れることはあるものの、

基本的に演奏も2人だけで作り上げるスタイルは、

エレクトロニクスの普及によるところが大きく、

80年代の先端を行くものでした。

メンバーが少ないことを逆手にとっての打ち込み主体のエレクトロ・ファンクで、

そこそこのヒットを連発した彼らですが、ヒットの規模以上に、

同業者であるミュージシャンからの受けがよく、

楽曲提供やプロデュースの依頼が殺到。一躍人気者となったのです。

そんな彼らが外部での仕事から得たものをうまくフィードバックして、

1987年に発表したのが

「ドント・ディスターブ・ディス・グルーヴ」という曲。

それまでより少し生音の割合を増やし、

ミディアム・テンポに新境地を見せたこの曲は、

誰も聴いたことのない、正しく1987年時点で最先端のグルーヴを持ち、

全米4位(R&B1位)の大ヒットとなりました。

日本ではこれまでの彼らの情報がほとんど紹介されず、

いきなりこれから始まった感があったので、

一発屋と勘違いされているのが残念です。

この曲が業界に与えた衝撃は大きく、

この後2年間ほどこの曲を真似た数多くの曲が生まれたのですが、

当然ながらオリジナルを超えることはできません。

20年経た今なお古びず、堂々たる古典として、

R&B系のクリエイターにとって学ぶべき必須科目となっている名曲です。

お届けしたのは、

1987年の曲「ドント・ディスターブ・ディス・グルーヴ」でした。

9月17日(木)の名盤は…

今日は1980年代から90年代にかけて人気の高かったロック・バンド、

「ビッグ・カントリー」を紹介しました。

パンク・バンド、スキッズのメンバーだったスチュワート・アダムソンを

中心にスコットランドで結成された4人組で1982年にデビュー。

翌年の83年にリリースした3rdシングル「インナ・ビッグ・カントリー」が

イギリスのみならず、アメリカや日本でも大ヒットを記録。

これを含む1stアルバムも売れまくり、

一躍その名を世界に知らしめました。

しかしその後はパッとせずフェード・アウトしてしまう・・・というのは

アメリカと日本だけの話。

本国イギリスではその後もずっと高い人気を保ち続けているのです。

そういうよりも、「インナ・ビッグ・カントリー」より

ヒットしたシングルもありますし、

2ndアルバムは1stでも果たせなかった全英1位に輝いているし、

3作目以降も1stと同じくらい売れ続けているし、

イギリスに限って言うならば、日本とアメリカのファンが忘れ去った後に

全盛期がやって来たと言ってもいいほどだったのです。

一発屋だなんてとんでもない!デビュー当時はプロデューサーが同じで

音楽性も似た点の多かったU2とライバル視されていた、なんて聞けば

今の日本の若い人達は笑うかもしれませんが、

国内においては“好敵手”の名にふさわしい

健闘を10年ほど続けていた事実を忘れるわけにはいきません。

さて、彼らのサウンドと言えば、バグパイプを思わせるギターを

第一に挙げるファンが多いでしょうが、

それに勝るとも劣らない魅力がリズム隊。

バッスンバッスンと力強く切れのいいドラムと黒人ベーシストによる

ファンキーなコンビネーションを評価する同業者は多数で、

様々なセッションに引っ張りダコです。

ぜひ、そちらにも注目して聴いてみてください。

なお、スチュワート・アダムソンは2001年に他界しています。

今日お届けしたのは1983年の曲「インナ・ビッグ・カントリー」でした。

9月10日(木)の名盤は…

今日はJ.D.サウザーを紹介しました。

デトロイト出身の彼ですが、ロサンゼルスへ移り、

イーグルスやジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタットなどと交流を深め、

1970年代以降のウエスト・コースト・シーンの重要人物のひとりとなります。

とは言うものの、自身のバンドやソロではヒットに恵まれず、

もっぱら先に挙げた人達への楽曲提供やセッション参加の

裏方としての活動がメインでした。

優れた作曲家&ギタリストであり、味わい深い歌手であることは

マニアなら誰でも知っていましたし、

それ以上に彼にサポートを受けた仲間達が一番認めていたので、

不運な状況を歯がゆく思っていたようです。

そんな仲間の思いが通じたのか、

幸運は思いがけないところからやって来ました。

1979年、久しぶりにソロ作品の契約を勝ち取った彼は

少しアプローチを変えてみたのです。

それまでの土の匂いのするカントリー・ロック調から、

今回はもう一つのルーツである60年代ポップスの色を強めに出し、

そして大好きなロイ・オービソンの

1960年の大ヒット「オンリー・ザ・ロンリー」を下敷きにして

改作したような曲「ユア・オンリー・ロンリー」が完成。

同じリズムを使い、サビのメロディーもそっくり、全体のアレンジも、

さらにタイトルまでほぼ同じなこの曲を人々はパクリとは呼びませんでした。

愛情に溢れたオマージュであることがちゃんと伝わったのでしょう。

なんと全米7位の大ヒットとなったのです。

日本にいい言葉があります。

「よく知られた古い和歌の句の一部分を用いて新たな歌を作る技巧のこと」を

「本歌取り」と言いますが、そう、これは「本歌取り」と呼ぶべき名曲なのです。

ロイ・オービソン本人もわかっていて訴えるなんてするはずもなく、

1987年の復活コンサートではJ.D.サウザーをゲストコーラスに迎えて、

本歌「オンリー・ザ・ロンリー」を一緒に歌うという粋な演出で、

後輩からのリスペクトに応えています。

このときのJ.D.サウザーの嬉しいような、

照れくさいような表情がたまらなく良かったです。

今日お届けしたのは、

J.D.サウザーで「ユア・オンリー・ロンリー」(1979)でした。

<前へ 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13