« 旅するこころ | メインページ | アーカイブ | スタッフからのメッセージ »

名盤 IN A DAY

6月25日(木)の名盤は…

今週は「ジャニス・イアン」を紹介しました。

皆さん、ジャニス・イアンという名前を聞いてどんな印象をお持ちでしょうか。

若いリスナーの方は初めて聞くという人がほとんどかと思いますが、

40代半ば以上の方ならば、日本のTVドラマや映画の主題歌を多く歌った、

親日家のポピュラー歌手というイメージが大半を占めるのではないでしょうか。

確かにそういう側面もあって1970年代後半は日本で大人気だった彼女ですが、

そんな一言では語ることのできないほど重要な音楽家なのです。

デビューは1966年、なんと15歳でした。

しかも作詞作曲、ギター演奏も自分の手によるものです。

さらにそのデビュー曲「ソサエティズ・チャイルド」は

黒人の男の子と白人の女の子が交際するという、

当時はショッキングな内容で、レコード発売を拒否されたり曲をかけた

ラジオ局が放火されたにもかかわらず、なんと全米1位になったのです。

天才少女の登場と騒がれたのも当然でしたが、ヒットはこれだけ。

アルバム5枚は時代の先を行き過ぎたためか、

それほど売れませんでした。

けれどもこの時代の彼女の作品のジャズとR&Bとフォークを

混ぜたような独特で高い音楽性と社会派メッセージこそが、

後の女性SSWに与えた影響は大きかったのです。

ジョニ・ミッチェルよりもローラ・ニーロよりも先に

ジャニス・イアンがいたことを覚えておく必要があるでしょう。

しばらく充電した後、1974年に復活、ぐっと大人になって

ポップになったここから大成功を収めることになり、グラミー賞も獲ります。

初期と完全に別物の音楽になったわけではないのですが、

かなり大衆的で、わかりやすくなったこの時代以降から前述のように

日本で人気となったので、マニアックなリスナーには見過ごされて

しまったのが惜しかったかもしれません。

1980年代は離婚、2度の大病、破産と不幸に見舞われましたが、

1993年に約10年ぶりに復活。

初期のようなシリアスな音楽に立ち戻り、

マニアも納得の好作を作り続けています。

全盛期を知っている人にこそ、先入観なしにぜひ聴いてもらいたいです。

今日お届けしたのは、

1993年リリース、ジャニス・イアンで「走り続ける列車」でした。

6月18日(木)の名盤は…

今週はケニー・ランキンを紹介しました。

先週、また悲しい知らせが届きましたね。

ベテラン・シンガー・ソングライター、「ケニー・ランキン」が

肺がんのため亡くなりました。大ヒット曲があるわけでもなく、

特に日本では全盛期の作品が入手困難な時代が長かったので

“知る人ぞ知る”存在でしたから、一般紙に訃報が載っていたのが

不思議な感じがしましたが、でも今や日本のファンが実は

一番彼の偉大さを理解しているのかもしれません。

1970年代に活躍したイメージが強いので、

享年69才と聞いてびっくりしましたが、デビューは1957年(!)とのことなので、

プレスリー等とほとんど変わらない人だったんですね。

もっともこの時はまだ若すぎた(10代!)ためか全くヒットせず失敗に終わります。

再デビューは1967年まで待たなければならなかったのですが、

この間にボブ・ディランのセッションに参加したりして腕を磨きます。

そして決定的だったのが、ブラジル音楽ボサ・ノヴァとの出会いでした。

すっかりこれに魅せられた彼はボサ・ノヴァ独特のノリとフィーリング、

そしてギター奏法を完璧に自分のものにしたのです。

再デビュー以降の彼の音楽は、これにジャズの要素ともともと自分が

得意だったポップスを掛け合せたような独自のフォーク・ロックと

いったものです。今ならAORと呼ばれるものに近いのですが、

時代的にはAORが誕生するよりずっと早く、

当時としてはどう扱っていいのか、ファンもメディアも戸惑ったようです。

内容の充実に比べると、商業的には恵まれませんでした。

ただ、同業者からは高く評価され、多くの曲がカヴァーされています。

そんな彼を1990年代に見出し再評価したのが、実は日本なんです。

しかも意外なところから。

クラブDJ達が彼の音楽の気持ちよさに気付き、

ちょっとした人気になったんです。

全てのCDが再発され、今や日本が一番音源を入手しやすいようです。

後追いの若い世代から指示されていたケニー・ランキン本当に残念ですね。

お届けしたのは、

1972年リリース、ケニー・ランキンで「ライク・ア・シード」でした。

6月11日(木)の名盤は…

今週は「ヴァン・ヘイレン」を紹介しました。

ロックはイントロが命。

カッコいいイントロでリスナーの耳をこちらに向けさせることができれば、

もうヒットは約束されたようなもの…。

まさに名曲に名イントロあり、ですが、その中でも最も有名なもののひとつが

現在ドラマの主題歌としてリヴァイヴァルしているこの曲でしょう。

ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」。

洋楽を聴かない人でさえも“ああ、あれ!”という意味では、

イントロ知名度トップ3に入っているのは間違いないと思われます。

さて、このヴァン・ヘイレン、1978年のデビュー以来、

HR/HMファンの間では大人気でしたが、

ヒット曲は他人のカヴァーばかりで、一般的人気は一流半といった感じでした。

そんな彼らの初めての自作ヒットであり、

初の全米No.1獲得曲が1983年リリースのこの曲です。

何といっても、イントロで印象的なシンセサイザーを全編に

大胆に導入したポップでキャッチーなアレンジガHR嫌いの人にも

受け入れられ、世界のトップスターの座を手に入れたのですが、

古くからのファンはあまりにも下世話な感じにとまどいました。

しかし、脳天気なまでの明るさはこのバンドのある意味本質ですし、

シンセイばかりが話題になる中で間奏のギター・ソロはアイディアも

テクニックもHRギターの教科書と呼ばれるほど充実した

ベスト・プレイですから、突然変異でも何でもなく、

これぞヴァン・ヘイレン節そのものと言えるのかもしれません。

もうひとつ、実はこの曲、先週紹介した、

クリストファー・クロス「オール・ライト」のパクリ疑惑があるのですが、

AORポップスをHRにしてしまったわけで、

他人の曲を自分達の音でカヴァーするのを得意としてきた彼らの

真髄と言えなくもない?それにしてもこのイントロ。

このシンセの音色は最も80年代を代表するもので、

ということは古臭く感じるはずなのに少しも時代を感じさせず、

今なお愛されているのは不思議ですね。

これぞ名曲のみが持ちうるマジックなのでしょう。

6月4日(木)の名盤は…

今日はクリストファー・クロスを紹介しました。

1980年前半、全く無名の新人アーティストのデビュー曲が

全米チャートを急上昇しました。クリストファー・クロスの「風立ちぬ」です。

優しく透き通ったハイトーンの歌声と流麗なメロディライン、

都会的なアレンジは、日本でも大人気となりましたが、

本人に関する情報は全然入ってきません。

これは本国でも同じで、デビュー後数ヶ月は、ライブもせず、

TVにも出ず、アルバムにもイメージ・キャラクターのフラミンゴの絵が

描かれているだけで顔写真のひとつもなかったのです。

これは完全にレコード会社の戦略の成功でした。

遂に初めてその姿を公の場に披露したとき、

おそらく日米あわせて100万人のファンは皆「えーっ」と

声を出したに違いありません。

それほど歌声とギャップのあるルックスだったのです。

本人が自分のルックスをどう思っていたのかは分かりませんが、

もともとハード・ロックを演っていたのに声質が向いていないため

断念したそうなので、自分のやりたい音楽と己の美声とのギャップに

悩まされたのは間違いないでしょう。

ともあれ、これ以降、意識的にメディアに露出しない戦略は

多用されるようになります。

その意味でもエポック・メイキングな名盤といえそうです。

ギャップという点ではもう一つ。

それは歌詞です。今日お届けした「風立ちぬ」、

曲調と歌声からは想像できないと思いますが、

実は”10人を撃ち殺した無法者が国外まで逃げれば自由になれるという

メキシコ国境を目指し馬を走らせる”という内容なんですよ。

イメージと内容とのギャップの大きな名曲って意外にたくさんあるんですが、

その中でもかなり上位にランクされるのがこの曲です。

そういえばこのクリストファー・クロス、ルックスにも、

そして美声にも似合わず、カー・レーサーとしても活躍しています。

ほんと、ファンの裏をかくのがお好きな人のようです。

5月28日(木)の名盤は…

今日は、ティナ・ターナーを紹介しました。

一時期は引退の噂もありましたが、去年から今年にかけて

8年ぶりに復帰ツアーを行うなど、

日本流に言えば古稀とは思えないような歌声と脚線美を披露してくれた

”ソウルの女王”です。

しかし、彼女の人生は現実に映画化されたほどドラマチックなものでした。

まだ10代の少女だったアンナ・メイ・ブロックは、大物ブルースマン、

アイク・ターナーに見出され、ティナと名付けられます。

その後結婚し、アイク&ティナ・ターナーという夫婦デュオとして1960年代から

70年代前半にかけてヒットを連発、トップ・スターに昇り詰めます。

子宝にも恵まれ、外から見ると幸福の絶頂に思われましたが、

実はアイクはたいへんな男で、愛人は多数作るは、麻薬中毒だは、

ティナを殴る蹴るの暴力で奴隷のように虐げていたのです。

長年苦しみに耐えてきたティナでしたが、1975年、遂に離婚を決意。

ですが、この時の条件が”夫婦時代に築いた財産はすべて夫のものとする”という

最低のものでした。

さらにデュオ名義で出した曲は契約の関係で歌うことができず、

大都市ではアイクの圧力で仕事を干され、

地方をまわって食い繋ぐより他はなかったのです。

70年代後半から80年代初頭にかけて彼女の名前は

表舞台からほぼ消え去ってしまいました。

生活保護さえ受けていたと後に語っています。

1983年、救いの手は意外な所から差し延べられました。

海を越えたイギリスの、しかも二世代も若く、

音楽性も異なるニューウェイヴの連中が声を掛けたのです。

彼女も最初は驚きましたが、イギリスならいやがらせも届かないし、

歌える場があれば何でもいいと飛んで行きます。

こうして制作されたアルバム「プライヴェート・ダンサー」は

歌える喜びと若い感性に溢れた傑作となり、ヒットも多数生まれ、

グラミー賞を獲得したのです。

奇蹟の復活、いいえ、彼女は45歳にして初めて

本当の自分を見つけ出したのかもしれませんね。

5月21日(木)の名盤は…

今週は”アメリカン・ロックの良心”と呼ばれる男、

トム・ペティを紹介しました。

ブルースやカントリーなどのアメリカ音楽のルーツに根ざした

音楽性はもちろん、不遇に泣かされている先輩ロッカーたちを手助けして

第一線に復帰させたり、

幅広い世代の音楽仲間からリスペクトされていることが”良心”と

いわれる所以ですが、ただ”いい人”というだけで

40年もトップに立ち続けることはできません。

強い意志を持った燃える男なのです。

まずアマチュア時代にレコード会社からソロ契約を打診されたのですが、

「俺達はロックンロールバンドだ。バンドとしてでないと契約しない」と

頑なに拒否。このためデビューが何年も遅れてしまいました。

でも、その仲間こそ後にアメリカ屈指の名バンドと称される

ザ・ハートブレイカーズですから、

スカウトマン達も見る目がなかったということでしょうか。

やっとデビューしたものの、その会社との契約トラブルで裁判となり、

活動休止を強いられます。

なんとか移籍できたら、今度は新会社とレコードの価格で対立。

結局彼らは自らの利益を削ってまでファンのために

安い価格を認めさせたのです。

最近でもツアーのチケットをめぐって会社とやり合い、

これも殿堂入りしている大物バンドとは思えないほどの

安価なチケットを提供して関係者を驚かせました。

自分の美学を貫く信念は常にファンへの優しさに裏打ちされているのです。

だからこその”良心”なのでしょうね。

余談ですが、3年前にこんなことがありました。

ある世界的人気バンドの大ヒット曲が、トムの作品からの

盗作ではないかと騒がれたのです。

「訴えるべきだ」という声に対してのコメントがシビれます。

「いいさ。模倣は最高の賛辞だろ。」どうですか、このビッグ・ハートぶり。

日本では今ひとつ人気がないのが残念かつ不思議でならない、

愛すべきロックン・ローラーです。

今日は、1981年の曲「孤独な世代」をお送りしました。

5月14日(木)の名盤は…

今日は、

ロックの殿堂入りも果たしている大御所、

「フリート・ウッド・マック」を紹介しました。

このバンド、イギリスでゴリゴリのブルース・ロックをやっていましたが、

メンバー交代を繰り返し、どんどんポップなサウンドへ変化し、

遂には活動拠点をアメリカへ移して、

初期とはまったく別モノのようになります。今では多くのファンが、

もともとアメリカのバンドだと思っているようです。

アメリカ移住後、1975年のLP「ファンタスティック・マック」が

500万枚の大ヒットとなり、ここからが全盛期と言えます。

この時のメンバーはミック、ジョン、クリスティン、リンジー、

そしてスティーヴィの5人。

同じ面子で次の作品を制作中にドロドロのトラブルが同時多発します。

まずリーダーのミックが離婚。夫婦だったジョンとクリスティンも離婚。

恋仲にあったリンジーとスティーヴィは破局と、全員が心身共にボロボロで

お互いの信頼関係も崩れ、とても気まずい状態で、

それでも制作は続いていきます。

そんな中、自然とみんなが元パートナーへの怨みつらみ、あてつけを歌にし、

大暴露大会とも言える楽曲が集まりました。

お互い曲を受け取った時はどんな気持ちだったか分かりませんが、

”それはそれ、これはこれ”と割り切ったのか、

あるいは優れた表現の前には個人的な怨みつらみは関係なかったのか、

とにかく全員が卓越したプロであり、生粋のミュージシャンだったのでしょう。

こうして1977年に完成したLP「噂」は、完成度が極めて高く、

ビシッとした緊張感が筋の通った大傑作となったのです。

結果としてバンドに巨万の富と名声をもたらしたわけですが、

当人達にとっては、自らの苦しみや悲しみを音楽にぶつけることによって

救われるという、あまりにもミュージシャンでしかない自分を

再発見できた喜びも大きかったのかもしれません。

この後10年もこの5人でバンドが続いたのですから。

1000万枚を超えるメガ・ヒットを記録し、

ロック史上に輝く名盤の裏に隠されたドラマのお話でした。

今日は、フリートウッド・マックで「ドリームス」をお届けしました。

5月7日の名盤は…

今日は、

今月2日に58歳で亡くなられた忌野清志郎さんについてお話しました。

あえて愛をもって「清志郎」と呼び捨てにさせていただきたいと思います。

功績についてはメディアでいろいろと語られていますが、

結局のところ清志郎はその時その時に興味、関心があることを、

自ら見聞きした、体験したことを信じて歌っていただけなんじゃないかと

思います。チェルノブイリの事故が起これば、

「牛乳が飲めなくなるのは嫌だなー」と思い、

子どもが生まれれば親バカ丸出しの歌を作り、

君が代が国歌なら国民であるオレが歌ってもいいだろうと行動する。

そしてそのフットワークの軽さ、自由さこそが彼の思うところの

ロックだったのではないでしょうか。

だからメディアから反原発ロックとレッテルを貼られ、

まつり上げられようとした時も、

「反原発ロックなんかじゃねー。ただのロックだ。」と言い切ったのでしょう。

反対に自由ではなく思ったことができない状態や人については、

「ダサい。さえない。」として忌み嫌い、徹底的に戦いました。けれども、

辛らつで過激な言い回しの中にも必ずユーモアと茶目っ気を

忘れることはありませんでした。

風刺が効いているというか、言葉は変かもしれませんが、可愛いんです。

言いたいことを言うだけではなく、

表現としてあまりにも優れているということでしょう。

そのことに関しては作詞の才能を見落とすことはできません。

それまでどうしても間延びしたり、

それを逃れようと英語風の発音でごまかしていた日本語を

きっちりと美しくロック・ビートに乗せたのが清志郎です。

グルーヴ感を失わずにはっきり聞き取れる日本語ロックを発明したのが

彼だということを覚えておきたいと思います。

4日に続いて9日にあるお別れ会も大ロックンロール葬になるようです。

番組では、今日は清志郎のある言葉と共に1曲お送りしました。

清志郎の子分的存在だったヒルビリー・バップスというバンドのメンバー

宮城宗典が亡くなった時、

彼の追悼ライブに出演した清志郎がこんなセリフを言って歌いました。

「いなくなった者より残された者のために」。

いろいろと考えたのですが、「いなくなった者より残された者のために」も

派手なロックンロールで清志郎を送りたいと思います。

お届けしたのは、

RCサクセション「ドカドカうるさいロックンロールバンド」でした。

4月30日の名盤は…

今日は、

洋楽につけられる日本語のタイトル、”邦題”に注目してみました。

ひと昔前までは洋楽の曲やアルバムには邦題がつけられるのが

当たり前でした。原題を直訳したものもあれば、詞の一部を引用したもの、

あるいはイメージというか直感だけで勝手につけたものもあります。

こういった邦題の中には実に秀逸で、原題よりもはるかに強く我々の心に刻まれて

市民権を獲得したものもたくさんありますが、逆に“ちょっと悪ノリしすぎ”で

ハズしてしまったものも同じくらいいっぱいあります。

そんなタイトルはレコードからCD化される時や、

再発売される時に整理されることも少なくありません。

例えばシンディ・ローパーの「ハイスクールはダンステリア」。

これは今のCDでは原題そのままの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」に

変更されています。

ただ、これなんかはいかにも80年代!という感じで確かに今となっては、

カッコよさが分かりにくい邦題かもしれませんが、

リアルタイムで聴いていた世代にとっては、

そのタイトルで強烈に覚えているわけで、

今さら変えられても・・・という人も少なくないと思います。

今日紹介したのはそんな邦題をめぐっての非常に珍しい例となった曲です。

曲そのものは皆さんご存知の、カルチャー・クラブのとても有名な曲なんです。

カルチャー・クラブは1982年、

シングル「ミステリー・ボーイ」で日本デビューしました。

そして1stアルバムが発売され、2ndシングルとしてその中から「冷たくしないで」と

邦題をつけた曲を発売することになりました。

ところが、当時、イギリスの最先端の音楽を直接入手して聴いていた、

一風堂の見岳アキラが、

この曲をすでに自分で邦題をつけて日本語でカバーし、

なんとシングル・カットしていたのです。

カルチャー・クラブのレコード会社は「違う曲と思われるのもなんだから」と、

見岳さんのタイトルに合わせることにしました。

こうして原題とも詞の内容ともまったく関係ないタイトル「君は完璧さ」が誕生。

邦題が2度つけ直された珍しいケースとなったのでした。

という事で、今日は君は「完璧さ / カルチャー・クラブ」を紹介しました。

4月23日(木)の名盤は…

今日は、

最近某第3のビールのCMでよく耳にするあの曲を紹介しました。

「ギミ・サム・ラヴィン」という曲で、ブルース・ブラザーズの

カバーでもヒットしていますが、オリジナルは1960年代、

イギリスのザ・スペンサー・デイヴィス・グループです。

世の中にはバンドに限らず、リーダーが一番存在感が薄い、

というグループがたまにありますが、

自分の名前を前面に押し出しているにも関わらず、

目立った活躍をしていないという意味では、

このスペンサー・デイヴィス・グループ゜における

スペンサー・デイヴィスもまさにそんな一人です。

ではこのグループで目立ったメンバーが誰かと言うと、

リード・ボーカルであり、リード・ギター、キーボードをこなし、

ヒット曲のほとんどを作曲したバンドの顔、スティーヴ・ウィンウッドです。

後にトラフィックを結成し、さらにソロに転じ、

イギリスのみならず世界のビッグ・ネームとなる彼の

プロとしてのキャリアの出発点となったのが、このグループだったのです。

このウィンウッド、楽器をなんでもこなすマルチ・プレイヤーで、

作曲能力があり、さらに歌も、という人は少なくないのですが、

そのどれもが異常なまでにレベルが高いという、

類まれなる音楽的才能の持ち主で、しかももっとすごいのが、デビュー当時16才、

この曲の時点でまだ18才という若さだったんです。

特に歌。とても十代のものとは思えません。若さはあっても幼さはありません。

21世紀の現在、十代でデビューするアーティストは

「若いのに素晴らしい」というような評価をされがちですが、

40年前に「若いのに」という枕詞なしに、

大人と同じ土俵で互角以上に戦っていたのが彼だったのです。

昔がとんでもなかったのか、今が過保護なのか。

まぁ、音楽的才能に年齢の要素を加味すると、

本当の天才はスティーヴィ・ワンダーとスティーヴ・ウィンウッドの二人だけ、

なんて言われるほどの別格の人なので単純に比較は出来ないでしょうけれど。

今日お届けしたのは、

スペンサー・デイヴィス・グループで「ギミ・サム・ラヴィン」でした。

<前へ 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15