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名盤 IN A DAY

6月26日(木)の名盤は…

今日はドゥービー・ブラザーズを紹介しました。

長く活動を続けるバンドだったら、ファンの年代層によって、

言い換えれば、どの時代を熱心に聴いたかによって、

バンドのイメージが変わることは多少なりともあるものです。

しかし、このバンドほど真っ二つに分かれるのも珍しいのではないでしょうか。

というよりも、ドゥービー・ブラザーズという名前の違うバンドが2組あった、

と考えるべきなのかもしれません。

もともとはツイン・ドラム編成に黒人ベーシストによる力強くて

ファンキーなリズムを土台にした、野性味溢れるギター・ロックで、

「ロング・トレイン・ランニン」や「チャイナ・グローブ」といった名曲を生み出し、

1970年代ウエスト・コーストをイーグルスと並んで代表するバンドでした。

ところが、途中でリーダーのトム・ジョンストンが体調不良で

休業(結局戻らず、脱退)したため、代役として元スティーリー・ダンの

マイケル・マクドナルドが加入。ここが運命の分かれ道でした。

スティーリー・ダンからはもう1人参加しており、

まさにスティーリー・ダンに乗っ取られたような形で音楽性が変化。

ジャジーで都会的に洗練された

AOR/シティ・ポップスになってしまったのです。

そしてこの路線で、バンド初期以上の成功を勝ち取り、

グラミー賞まで独占したのです。

70年代後期から80年代前半まで、ドゥービーズと言えば、圧倒的にこちら。

後期を指しました。

しかし90年代は初期メンバーで再結成し、

また、初期のファンキー・ロックがDJ達に再評価され、

後期ドゥービーズの印象も若干薄れた感があります。

今日お届けしたのは、後期の名曲。1978年の全米No.1ヒット曲。

「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」。

ドゥービー・ブラザーズというバンド名、

実は直訳すると「麻薬兄弟」なんですが、

そんなバンド名が全然似合わない、おしゃれなAORです。

6月19日(木)の名盤は…

今日紹介したのは、フォーカスの「悪魔の呪文」という曲です。

音楽の世界では、稀に「変な曲」(?)がヒットすることがあります。

たいがい企画モノのノベルティソングである場合が多いのですが、

そうではなく、やっている本人たちは笑わそうなどとは少しも思ってなく、

いたって大マジメなのにも関わらず、

出来上がったものは非常に変な曲であり、

それがとてもヒットしてしまった、というものの最たる例が、

何と言ってもこの曲じゃないでしょうか。

全米チャートで9位まで上昇した大ヒットなので、

オールド・ファンには有名な曲ですが、

なにしろ35年以上も前なので、初めて聴く方も多いと思います。

オランダのロック・バンド、フォーカスが生んだ、一世一代の変わった曲。

気になる方はぜひ聞いてみて下さい♪

1973年全米9位のヒット曲、悪魔の呪文 / フォーカス

6月12日(木)の名盤は…

今日紹介したのは「ザ・ロマンティックス」です。

1980年代前半のアメリカ、1979年に突然現れた新人バンド、

ナックの超大ヒット「マイ・シャローナ」の奇跡をもう一度、

とばかりにこの時代にはたくさんのビート・バンドが登場しました。

ビートルズ、ストーンズ、キンクス、フーといった60年代イギリスの

ビート・ミュージックをルーツとした、ポップで切ないメロディと

シンプルなロックンロール・ビートを、70年代ハード・ロックとパンクを

通過した感性で再構築したサウンドは、パワー・ポップと呼ばれ、

それなりのブームとなりました。

“それなりの”と言うのは、バンドこそたくさん生まれたものの、

メジャー・レベルでヒットを放った者がほとんどなかったからです。

当のナックでさえ、「マイ・シャローナ」以降はパッとせず、

悲しいかな“一発屋”と呼ばれてしまう有様。

それにもかかわらず、次々とこの手のバンドが現れては消えていったのは、

ナックの衝撃がいかに巨大だったか、そしてパワー・ポップという音楽が

若者にとって普遍的な魅力に溢れているかの証明といえるでしょう。

そんな中、ナックに近い成功を手にしたバンドが、ロマンティックスです。

なのですが、彼らは1977年にデビューですから、実はナックより先輩。

1980年にメジャー進出。3枚のアルバムが泣かず飛ばずで、

1983年にリリースした4作目からカットしたシングル

「トーキング・イン・ユア・スリープ」が、全米3位の大ヒットとなります。

ただ、この曲は彼らの中でも異色作で、

魅力を100%出し切ったものとは言えないナンバーでした。

もちろん、本人たちとしては許せる範囲での妥協だったのでしょうけれど。

結局、彼らもナック同様に一発屋のレッテルを貼られてしまうのですが、

改心の傑作が当たって本望なナックに対し、

後味の悪さが残っているのでは、なんて考えるのは大きなお世話でしょうか。

6月5日(木)の名盤は…

今日は1980年代前半に活躍したクォーターフラッシュを紹介しました。

アメリカのオレゴン州ポートランドで1960年代に結成された

高校生バンドを母体とし、やはりポートランドで活動していた

他のバンドのメンバーと合体。

6人組のクォーターフラッシュとなったのが、1980年。

この間に中心メンバーの紅一点ヴォーカル、リンディと

ギタリストでほとんどの曲を手がけるマークは結婚しています。

まず地元インディ・レーベルから発表したシングル「ミスティ・ハート」が、

ポートランドのラジオで1位となり、これを認められてメジャーと契約。

1981年末にメジャー・デビューを果たします。

デビュー曲に選ばれたのは、もちろん「ミスティ・ハート」。

地元ではすでに人気曲だったこれを、お金と手間をかけて

メジャー流のサウンドに新録音したものです。

これがラジオを中心にして注目が全米に広まり、

じわじわとチャートを上昇。

年が明けて1982年2月には全米3位を記録する大ヒットとなったのです。

バンドを始めてからおよそ15年。結婚して30歳を超えての遅咲きながら、

大輪の花をデビューにして咲かせたのでした。

でもかえってこれがよかったのかもしれません。

ヴォーカルのリンディは歌いながらサックスも吹くのですが、

(当時はとして女性がサックスを吹くのはとても珍しかったのです。)

これが実にカッコ良く、ヴォーカルの艶っぽさといい、サックスの音色や、

構えたときの立ち姿といい、二十代の女性とはまた違う、

セクシーな雰囲気が漂っていたからです。

彼女の二十代の時を知らず、いきなり三十代での登場だったからこそ、

全米の若者のソウルをわしづかみにしたのではないでしょうか。

あえて抑えたノリと構成もそんな魅力を強調した名曲です。

5月29日(木)の名盤は…

リズム・シリーズ第2弾!

1980年代末から90年代初頭にかけてのイギリスのお話をしましょう。

先週はアメリカで大流行した

ニュー・ジャック・スウィングというリズムをご紹介しましたが、

ニュー・ジャック・スウィングから遅れることおよそ1年、

1989年に「キープ・オン・ムーヴィン」という曲が大ヒットします。

アーティストは後に日本でも広く知られることとなるSOULⅡSOUL。

この曲で使われたリズムが、これまで誰も聴いたことのない、

革命的に新しいものでした。

部分的には時代の必然か、ニュー・ジャック・スウィングと似ています。

どちらも1980年代中期にワシントンD.C.だけで局地的に流行した

ゴーゴーというリズムの流れを汲む、ハネるビートです。

決定的に違うのは、レゲエをルーツとする低くウネって沈み込むベース・ライン。

この”沈み込む”、”潜り込む”、”地面を這い回る”イメージから、

グラウンド・ビートと名づけられました。

ハネるビートと沈み込むベースという、相反する要素が同居して、

テンポも遅く、隙間の多いサウンドが、

ホットなニュー・ジャック・スウィングに対して、

クールなカッコ良さを生んだのです。

さらに打ち込みならではの揺らぎのなさが気持ちいい

ニュー・ジャック・スウィングと正反対にこちらは打ち込みなのに

人間臭いグルーヴを作り出したのが奇跡的でした。

当然のように大流行し、90年代初めの音楽シーンを

ニュー・ジャック・スウィングと二分する人気のリズムとなったのでした。

さて、このSOULⅡSOUL、クラブDJのジャジー・Bという人が

中心のユニットだった訳ですが、

この人はDJならではの編集能力に長けた人で、彼のアイデアをもとに、

実際のサウンド作りは、後にビョークのプロデューサーとして

名を上げるネリー・フーパーが担当。

さらにリズムをプログラムしてグラウンド・ビートを作り出したのは、

元MUTE BEATのメンバーと言うべきか、

後のシンプリー・レッドのドラマーと言うべきか、

はたまた藤井フミヤのプロデューサーと言ったほうが分かりやすいのか、

つまりGOTAこと屋敷豪太。

実は世界を席巻したリズムは日本人が発明していたんですね。

5月22日の名盤は…

今日はリズム・シリーズVol.1と題してお送りしました。

ブラック・ミュージック/クラブ・ミュージックの世界で一番重要なのは、

リズム/ビートです。

常に時代のテンポに合ったビートが求められ、

それにピタリと同調したものがヒットする訳です。

逆に言えば、新しいビートの発明こそが、

この種の音楽の進化そのものと言えるでしょう。

そこで、今週と来週の2週は、1980年代後期から1990年代初頭にかけて、

アメリカとイギリスでそれぞれ大流行した2大リズムを紹介します。

まずはアメリカ編。1987年にキース・スウェットの

「アイ・ウォント・ハー」という曲がヒットしました。

この曲、それまでのいわゆる80年代ファンクとは

微妙なニュアンスの違いなんですが、明らかに一線を画す

新感覚のビートを持っていたのです。

作曲したのはテディ・ライリー。この曲ではまだ完成とは言えなかった

この新しいビートを、ライリーは自らのグループ、GUY(ガイ)を通じて

1年後に確立します。これがニュー・ジャック・スウィングというリズムです。

ニュー・ジャック・スウィングの特徴は、文字にすると難しくなりますが、

うねりながらも小気味よくシンコペイトするリズムと、

16ビート三連譜の細かいハイハットの組み合わせ、

ということになります。異様にハネるホットなビートとでも言いますか。

ポイントは2つ。シンコペイションの基本はファンクの流れなんですが、

そこにジャズに通じるスウィング感が加わっていること。

だからこそのニュー・ジャック・スウィングという名前なんです。

もう一つは、打ち込みによる、ユレのないジャストなビートであること。

揺らぎがないからこそ気持ちいい、というのが革命的に新しかったことと、

打ち込みであるがゆえに音楽的技量を問わず、

だれでも手軽に真似できたことが、

爆発的ブームにつながった重要なポイントです。

1990年前後の数年間のアメリカは、

まさにニュー・ジャック・スウィング一色というほどだったのです。

あのアーティストに影響を与えた…

今日はあるエピソードから紹介します。

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1960年代初頭のアメリカ。

ある少年がラジオから流れるロックン・ロールに夢中になりました。

まだビートルズ登場前。

当時のスターはエルヴィスにバディ・ホリー、チャック・ベリーなどなど。

でも、少年には彼らと同じくらい好きな、自分だけのヒーローがいました。

「あの人みたいになりたい。」少年はギターを覚え、歌い始めます。

ヒーローは1960年~1962年の間に8曲をヒットさせるも、

それ以降はパッとせず、名前を耳にすることもなくなってしまいましたが、

少年にとってのヒーローの地位は揺らぐことはありませんでした。

やがて時は流れ、少年は夢を叶え、プロのロックン・ローラーとなりました。

彼の名前は「ブルース・スプリングスティーン」

1980年代に突入しようかというある時、

すでにスターになっていたブルースは、

全米ツアーの移動中に立ち寄った田舎町の場末のバーで、

まばらな観客を前に歌っている中年の黒人を目撃します。

声を聴いただけで彼の正体がわかったブルースは、

震えながら楽屋を訪ねます。

「ゲイリー・U.S.ボンドさんですね。

僕と一緒にレコードを作って下さいませんか?」

しかし、彼はショー・ビジネスの世界に嫌気が差していて、

ブルースのことも知らないほどに業界から離れていたため、

なかなか首を縦に振りません。

そこでブルースはギターを借り、歌い始めます。

それは目の前の中年男性の

唯一の全米No.1ヒット「クォーター・トゥ・スリー」でした。

男性は言いました。「あんた、なんでこんな古い歌を知ってるんだ?」

ブルースは答えます。

「あなたは僕のヒーローなんです。この仕事を続けていれば、

いつかお会いできると信じて、ずっとステージで歌ってるんです」。

この言葉に復帰を決意した彼は、

ブルースの全面バック・アップの下、アルバムを制作。

シングル「いかしたあの娘」で、

1981年に20年ぶりにヒット・チャートに返り咲きました。

20年に亘るブルース・スプリングスティーンの一方的な師弟関係は、

世代を超えた男の友情となったのでした。

5月8日(木)の名盤は…

今日紹介したのは「ネッド・ドヒニー」です。

1948年、ロサンゼルス・ビバリーヒルズで生まれ、

7才からギターを弾き始めた彼は、

クラブで自作曲を弾き語っていたところを見出され、

新興レーベル、アサイラムからデビューしたのが1972年。

当時流行のシンガー・ソングライターの流れを汲みながらも、

他とは一線を画すファンキーなリズムと、少年のような甘いヴォーカルが独特、

一部のマニアに高い評価を受けました。

その個性をさらに推し進め、確立させたのが、

4年後にCBSへ移籍して発表した2ndアルバム「ハード・キャンディ」です。

これは世界中でヒットし、AORを決定付けた名盤として、

彼の名を知らしめました。

ところが彼の音楽活動は、本国アメリカではここで終わってしまいます。

翌1977年に録音した3作目はレコード会社が発売を拒否。

2年後に日本だけで発売されましたが、この後、彼の名前は消えます。

1988年、およそ10年ぶりに復活するも、

日本の会社との契約だったため、アメリカでは未発表。

ここで4枚のアルバムをリリースしますが、

1993年を最後に現在まで新作は出ていません。

実はこの人、ロサンゼルスでも屈指の大富豪の息子なんです。

実家近くに「ドヒニー通り」という名前の道があるほど。

生活にはまったく困っていないのです。

その点を“金持ちの道楽”とか“甘ちゃん”と指摘することはたやすいでしょう。

けれども、確かに「私には音楽しかないんだ」と、

この道一筋の迫力が名曲を生み、

われわれを感動させる場合が多いわけですが、

音楽に生活がかかってないことの余裕から生まれる名盤もあると思うのです。

彼の最大の武器は、この「音楽なんていつだってやめられる」という

凄みではないでしょうか。

普通のミュージシャンには絶対に身にまとうことのできないこの凄みと共に、

久々に新作を聴かせて欲しいと願うファンはたくさんいるんじゃないでしょうか。

5月1日(木)の名盤は…

今日紹介したのは「ウィルソン・フィリップス」です。

とても偉大な有名人を親に持つ子どもが、

後を追うように同じ道に進む、ということがよくあります。

当然ながら親を超えた人、超えられない人がいて、

これはどちらにもドラマが存在する訳ですが、

最も興味深いのは、“最初から超えられないと分かっているのに、

同じ道に挑む子ども”ではないでしょうか?

例えばジュリアン・レノン。あるいはジェイコブ・ディラン。ジギー・マーリー。

実力で親を上回る成績、仮に全米No.1ヒットを100曲送り込もうが、

1億枚CDを売り上げようが、時代を象徴するヒーローとしての

ジョン・レノンやボブ・ディラン、オブ・マーリーを超えることは、

絶対に不可能だということを、周りも自分自身も分かっているであろうに、

なお、同じ道を歩んでいるのです。

この覚悟というか決意には、“血”とか“業”といった一言では語れない

人間ドラマを感じずにはいられません。

今日紹介するウィルソン・フィリップスですが、

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの娘二人と、

ママス&パパスのフィリップス夫妻の娘によるトリオです。

フィリップスはともかく、ブライアン・ウィルソンという、

ある意味アメリカ最大の偉人を父に持つにも関わらず、

彼女らにはジュリアン・レノン達に共通するヘヴィな影や悲壮感が、

まったく感じられないのはなぜでしょう。性別が違うから?

3人に分散されて薄まったから?カリフォルニアの陽気な気候のせい?

おそらくは彼女らなりに人間ドラマはあったのでしょうが、

私達リスナー側が、彼女らのあまりの屈託のなさに、

親との比較という色眼鏡を通すことさえ忘れていたからではないでしょうか。

そのおかげか、彼女たちは全米No.1を3曲も放って、

親を超えたかどうかは別にして、大成功を収め、

たった3年で風のように屈託なく解散していきました。

(その後、2004年に復活しましたが・・・)

さて、ジュリアン・レノンやジェイコブ・ディランを

親との比較なしに見ることができる日がくるのでしょうか?

4月24日の名盤は…

今日はホワイトスネイクを紹介しました。

このバンドは元ディープ・パープルのヴォーカリスト、

デヴィッド・カヴァーデイルが、1978年に旗揚げしたもので、

ハード・ロック/ヘヴィ・メタル・ファンの熱烈な歓迎を受けましたが、

その割には本国イギリスや日本でこそ、そこそこヒットしたものの、

パープル時代ほどではなく、アメリカにいたっては満足にレコードも

発売されないという状態が続いていました。

なんとしてもアメリカでの成功を勝ち取りたかったカヴァーデイルは

1984年から拠点をアメリカへ移し、この国の市場を徹底的に研究します。

最初のアルバムは、

レコード会社に「こんな地味な音じゃこの国では売れないよ」と

勝手に派手なサウンドにリミックスされるという屈辱も味わいましたが、

これらの経験から少しずつ学習して、

3年後の1987年に完成させたアルバムが「サーペンス・アルバム」です。

原題はバンド名と同じ「Whitesnake」であることからも、

自信と背水の陣を両方感じさせる、

気合の入った本作からシングル・カットされたのが、

「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」でした。

この曲はイギリス時代、1982年のアルバムに収録されていたものですが、

これがアメリカでは未発売だったのと、

カヴァーデイル自信のお気に入りだったことで再録音したのです。

3年間の学習の成果を知らしめるべく、アメリカナイズされたこの曲を、

シングル化する際にさらに分かりやすく派手にリミックスしたおかげで、

遂に念願の全米No.1を獲得したのは、

バンド結成から、ちょうど10年経った時でした。

あまりにもポップで売れ線狙いのアレンジに、

昔から支持するヘヴィ・メタル・ファンからは非難されましたが、

これはどうでもよかったのでしょう。

なぜならカヴァーデイルはこう言っているからです。

「俺たちはブルース・ルーツのロックン・ロール・バンドであって、

ヘヴィ・メタルだったことは一度もない」と。

ブルース・ルーツのロックン・ロールともまた違うような気もしませんか・・・。

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