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名盤 IN A DAY

11月13日の名盤は…

今日は「ゴールデン・カップス」を紹介しました。

今週の月曜日、悲しいニュースが飛び込んできました。

ゴールデン・カップスのリーダーで、

ボーカリストのデイヴ平尾さんが病気の為、亡くなりました。

去年亡くなられた鈴木ヒロミツさんに続いて、

追悼という形でしかご紹介できないのが残念ですが、

本来は、もっと早く取り上げるべき、

日本音楽界に輝く巨匠だったと言っても過言ではない、

そんな方だったんですね。

ゴールデン・カップスこそが、現在まで脈々と続く日本のロック音楽の源流、

創始者であったと言えるでしょう。

もちろん、それ以前にもロカビリーやウエスタンの人達は

いたわけですが、ビートルズ以降のいわゆるロック・バンドを

日本に取り入れた最初がグループ・サウンズ、いわゆるGSです。

ですが、当時は日本全体がまだロックを分かっていませんでしたし、

そもそも活動の場がなかったので、

歌謡曲のフィールドに押し込められていました。

タイガース、スパイダース、ワイルド・ワンズなどなど。

すべて出発点はビートルズのようなロックンロールだったのに、

デビューすると、職業作曲家の手による歌謡曲チックな楽曲を

あてがわれてしまったんですね。

カップスも例にもれず、

ヒット曲の「長い髪の少女」、「いとしのジザベル」などはすべてそうです。

しかし、当時、本物の不良だった彼らが

それで満足するはずはありません。アルバムでは洋楽ばかりで、

ライブでもヒット曲はほとんどやらずにやはり洋楽ばかり。

独自の解釈と卓越した演奏力による洋楽カバー。

これこそが日本のロックの第一歩だったのです。

他のGSが後にみんな芸能界に転向したのに対し、

カップスのメンバーは全員音楽に残り、進化していきました。

日本のロックの一番最初にゴールデン・カップスがいたんですね。

11月6日(木)の名盤は…

今週は1980年代に多くのヒット曲を生み出し、

現在も地道に活動を続けるイギリスの女性シンガー、

「キム・ワイルド」を紹介しました。

1960年、ロンドンに生まれた彼女は、

父親が1950年~60年代にかけてヒット曲を量産し、

“イギリスのロックン・ロール生みの親のひとり”と言われる、

マーティ・ワイルド。

母親も同じ時期に人気のあったガールズ・グループのメンバーという、

二世アーティストです。

弟のリッキーと共に父親のステージにバック・ボーカルとして

参加しているところを大物プロデューサー、ミッキー・モストに見出され、

1981年にデビューします。

契約したRAKレーベルと言えば、社長のモストを中心に

プロダクション・スタッフがガチガチに固まっていて、

どのアーティストもみんな同じ音にしてしまうほど協力な

レーベル・カラーを持っていることで有名ですが、

彼女の場合はお父さんの力が大きかったのか、

会社側のスタッフを一切いれず、

父親と弟がプロデュースと楽曲提供、母親がマネージャーと、

すべてを家族で固める特例が許されたようです。

デビュー曲の「キッズ・イン・アメリカ」は、

当時全盛だったニュー・ウェイヴの手法を生かしたロックン・ロールで、

全英2位の大ヒット。

実際には若い姉弟がナメられないように、父親は名前を貸しただけで、

ほとんどすべての作曲、編曲、制作を担当した弟リッキー君こそが

本当の天才と言ってもいいんじゃないでしょうか。

ちなみにこの時、お姉さんのキムが20歳だったので、

弟のリッキー君は10代です!

ともあれ、これまでの長いキャリアの中で、

人気が下がってくるとスタイルを変えて、一発逆転のヒット曲を放ち、

ミュージック・シーンに残っているキム・ワイルドですが、

お父さん、お母さん、弟との絆は一貫して変わっていません。

キム・ワイルドというアーティスト名は、キム・ワイルド個人のものではなく、

ワイルド一家のグループ名と考えてもいいのかもしれませんね。

今日は、1981年のデビュー曲「キッズ・イン・アメリカ」をお届けしました。

10月30日(木)の名盤は…

今日はデレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」を紹介しました。

・・・と言っても、今日紹介したのは一人のギタリストの話です。

10月29日はデュアン・オールマンという偉大なギタリストの命日でした。

ロックを熱心に聴いている人はご存知だと思いますが、

一般的にはなかなか名前だけ聞いても、知らない人が多いかもしれません。

2003年にローリング・ストーン誌が発表した

「歴史上最も偉大なるギタリスト100」というものがあります。

それで首位のジミ・ヘンドリクスに次いで2位に選ばれたのが、

このデュアン・オールマンなんです。

このランキングにおいては、UKロックの3大ギタリストと言われる、

エリック・クラプトンやジェフ・ベック、ジミー・ペイジよりも

上とされていたんですね。

クラプトンの名前を出しましたが、このデュアン・オールマンの

一般的に最も有名なプレイは、実はクラプトンのあの有名な曲

「いとしのレイラ」なんです。

クラプトンの、と言いましたが…正確にはクラプトンもメンバーの一員だった

4人組のバンド、デレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」です。

でも、デュアンはこのバンドのメンバーでもないんです。

彼は数百曲のセッションに参加したスタジオ・ミュージシャンであり、

この当時はまだデビューしたばかりの

オールマン・ブラザーズ・バンドの一員でした。

そんな彼が「いとしのレイラ」のレコーディングに呼ばれたのです。

自分とほぼ同世代の天才との遭遇にクラプトンは燃えました。

いつも以上に気合のこもった最高のギターを弾いてみせたのです。

しかし、当時すでに“神様”と呼ばれていたクラプトンのベスト・プレイを

はるかに上回るギターを聴かせたのがデュアンでした。

おそらくリスナーの皆さんの多くが

“やっぱりクラプトンのギターはすごいなー”と

思っていらっしゃる部分はデュアンのプレイなんです。

中間のソロで天高くどこまでも昇っていくような

スライド・ギターもデュアンのものです。

クラプトンがこの後、ギターよりも作曲や歌うことに重きを置くようになったのは、

ここでの敗北が大きかったと言われています。

しかし、この録音からおよそ1年後の1971年10月29日、

デュアンはバイク事故で帰らぬ人となりました。24歳の若さでした。

今も生きていたら、どんな活躍をしていたのでしょう。

10月23日(木)の名盤は…

今週も先週に引き続き、”究極の語りソング“をお送りしました。

ウーマン・トゥ・ウーマン  /  シャーリー・ブラウン

やはりブラック・ミュージックで、1974年にR&Bチャートで1位を獲得した

大ヒット曲、シャーリー・ブラウンの「ウーマン・トゥ・ウーマン」です。

この曲が、なぜ究極かというと、イントロの語りが単なる状況説明的な、

いわゆるナレーションではなく、

演劇的なセリフになっているのが画期的に新しかったのです。

でも、まぁ、それだけならば他の曲でもあったかもしれません。

この曲のすごいところは、聴けば最初の1行でわかるんですが、

この歌の主人公は電話をかけているんですね。

この曲は本編の歌の部分も全部、電話で話している内容になっていて、

それの導入として、「もしもし」から始まるセリフから始まり、

そのままスムーズに歌につながる、というよりも、

いつの間にかセリフが歌にすり替わっていくという構成が絶品な訳です。

さらに最重要ポイントは電話の相手。

誰としゃべっているのかと言うと、

タイトルに出ているように「ウーマン・トゥ・ウーマン」。

女性から女性へ。“語り”の部分はこんなセリフになっています。

「もしもし、バーバラさん?私はシャーリー。誰だかわからないと思うけど、

私にはあなたに電話する理由があるの。

今朝、主人のポケットから、あなたの名前と電話番号のメモを見つけたの。

女同士、ちょっと話さない?」という内容。

そうなんです、夫の愛人に奥さんが電話をかけているという設定なんです。

この驚きの人間関係の設定と、電話を使った小道具、

そして歌にすり替わる構成が、二重三重に絡み合って、

究極の語りモノに仕上がっていると言えるでしょう。

10月16日(木)の名盤は…

今日は、「マンハッタンズ」を紹介しました。

最近はあんまり聴かれなくなりましたが、1970年代頃までは、

“語り”から始まる歌というのが結構ありました。

そんな“語り”から始まる歌が伝統的に多いのは、

なんといってもブラック・ミュージックではないでしょうか。

その中にはジェイムズ・ブラウンのようにファンキーで

アップ・テンポのジャンプ・ナンバーまでも

語りから始めてしまう例もありますが、一般的にはやはりスローなバラッド。

特に1960年から70年代のソウル・バラッドは、

語りから始まる名曲の宝庫と言っても過言ではありません。

本当にたくさんの素晴らしい曲があるのですが、

今日ご紹介するのは、その中でも名曲中の名曲と名高い、

マンハッタンズの「涙の口づけ」です。

このマンハッタンズ、日本でもとても人気の高いグループで、

1980年の大ヒット「夢のシャイニング・スター」は、

今なおFMKでもよく流れるので耳にしたことがある人も多いと思います。

彼らの本国アメリカでの最大のヒットが、

1976年、R&Bチャート、ポップチャートともにNo.1を獲得した、

この「涙の口づけ」です。

長い間、不倫関係にあった男女が、それを終わらせるべく、

最後のデートにのぞみ、

「キスしよう。それで、さよならだ。」というラブソングです。

それを冒頭の“語り”が静かに、ゆっくりと盛り上げてくれます。

リード歌手、ジェラルド・アルストンの情感たっぷりの歌いまわし、

絶妙なコーラス・ワーク、楽曲の良さ、そして語りを加えて、

三位一体ならぬ、四位一体と呼びたい名曲ですね。

10月9日(木)の名盤は…

今日は「マッドネス」を紹介しました。

マッドネスという名前は知らなくても、日本では35歳以上の方なら、

車のCMでムカデ・ダンスを披露していた7人組…、

懐かしく思い出されると思います。あのグループです。

1970年代末のイギリス、パンク・ブームに触発されるようにして、

スカのリヴァイヴァル運動が起こります。

スカというのはレゲエの原型ともいえるジャマイカのダンス・ミュージックで、

「ンカ・ンカ・ンカ・ンカ」というリズムが特徴です。

スペシャルズ、マッドネス、セレクターといったバンドが同時期に登場し、

同じ2トーンというレーベルだったこと、

白黒2トーン・カラーの衣装を身に着けていたことから、

2トーン・ムーヴメントと名づけられ、パンクを経由したスピード感溢れる

新しいスカがイギリス中で大人気となりました。

ところがこのムーヴメントは冷めるのも早く、

特に基本的に同じリズムのスカはすぐに飽きられ、

1982年頃には多くのバンドが消え、リーダー格だったスペシャルズさえ

解散してしまいました。

でも、マッドネスだけが生き残ったのです。

彼らには例のCMのムカデ・ダンスのようなユーモラスなキャラクターが

強烈だったことと、イギリスの人々の生活を風刺と皮肉をまじえながらも

ジョークたっぷりにあたたかい眼差しで描く歌詞の

素晴らしい才能があったからです。

こういう歌を書くバンドをイギリスの人達は愛します。

そして1982年末に発表した4作目のアルバム「ライズ&フォール」では

スカを捨て、いかにもイギリスらしい、

伝統的なブリティッシュ・ポップスといえるサウンドを展開。

より歌詞の内容と合った音楽性で、

イギリスの国民的人気バンドと呼ばれるほどになり、

1986年の解散まで高い人気を誇り続けました。

その後、何度か再結成するたびに大声援で迎えられています。

イギリスの庶民にとってはヒーローというより、

永遠の隣のアンちゃんなのです。

10月2日の名盤は…

今日は、日本のガールズ・ロック・バンドの草分けとも言われる

「ZELDA」を」紹介しました。

1979年、後にボ・ガンボスのどんとと結婚した小嶋さちほを中心に結成。

翌1980年に当時まだ中学生だった高橋佐代子がボーカルとして加入し、

バンドの二枚看板が揃います。

インディーで数枚のレコードを発表。ライブで実力と人気を高め、

1982年にメジャーデビューを果たします。

ボーカルのサヨコ、ベースのさちほの他、

ギタリストとドラマーは何人か入れ代わりがあったものの、

全員女性の4人組という形を崩すことなく、1996年の解散まで貫かれました。

この17年というのは全員女性バンドとしての最長活動記録として

ギネス・ブックにも載っているそうです。

ヒット・チャートに顔を出すほど売れたこともなく、

一般的には知名度も高くないZELDAですが、

バンドをやっている女の子にとっては、

必須科目とも言える存在だったのではないでしょうか?

また、ZELDAは成長・進化し続けたバンドです。

パンクから始まり、サヨコの文学性を前面に出した

ニュー・ウェイブ・サウンドの初期。

80年代後半はブラック・ミュージックに目覚め、

16ビートのファンキーなビートに傾倒。

90年代に入るとレゲエを大胆に採り入れ、

その流れで沖縄や各地のエスニックな音楽へも接近と、

長い活動の中で、同じような作風のアルバムが1枚もないのです。

そして1996年、彼女たちの最後のシングルがこれ。

胡弓とパーカッションを導入した、無国籍風サウンドながら、

全体的には「日本のうた」としか言いようのない音楽です。

今日お届けしたのは、ZELDAで「金木犀」でした。

9月25日(木)の名盤は…

今日は、「ジョージ・ベンソン」を紹介しました。

いつもなら、その日に取り上げるアーティストを、

「いつ頃、何のジャンルでヒットしたどんなアーティスト・・・」

などといった、何らかの肩書きをご紹介できるのですが、

一言で説明が出来ないのが、このジョージ・ベンソンです。

まず、1960年代初期にジャズ・ギタリストとして活動を始めます。

それは硬派なジャズであり、あのマイルス・デイヴィスにも認められるほどで、

60年代の後期からは、イージーリスニング・ジャズと呼ばれた、

後のフュージョンや、スムースジャズの先駆者にもなり、人気となります。

そして、70年代にはAORの名盤とも言われる、アルバム「ブリージン」で、

大物プロデューサー、トミー・リピューマと手を組み、ヒットを修めました。

そして、次に彼は自分の歌声を聴かせたことがターニングポイントとなり、

歌手としての活動がメインとなって行きます。

80年代はクインシー・ジョーンズ・ファミリーと組んで、ジャンルで言えば

ブラックコンテンポラリーやR&Bでのヒットを連発します。

また、平行してデヴィッド・フォスター一派との共演で、

AORやポップスでもヒットを連発。

はたまた、90年代以降は、本格ジャズギタリストとしての作品と

歌モノを交互に発表し、二刀流として現在でも第一線で活動する、

マルチな才能を持った天才です。

長い活動の中で、硬派なジャズ、スムースジャズ、AOR、

ブラックコンテンポラリー、R&Bと、4つのフィールド全てで、

成功を修めているのは、本当に凄いことです。

今日は、1981年のヒットで、デヴィッド・フォスター一派時代のもので、

「ターン・ユア・ラブ」をお送りしましたが、実はこの曲、

後にEAST EXD×YUKIの大ヒット、「DA・YO・NE」の元ネタにも

なった曲なんです。

これで、Hip-Hopの成功も加わった!?のでしょうか・・・。

9月18日(木)の名盤は…

今日はアメリカのロックバンド、

「ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド」を紹介しました。

日本の洋楽のヒット曲というのは、

昔からアメリカのチャートが大きく影響しています。

また、ビートルズのヒット以降は、

イギリスのチャートの影響も大きいと言えるでしょう。

それゆえにアメリカやイギリスでも、人気のあるアーティストは

日本でも、スーパースターです。

しかし時たま、両国でもあまり注目されてないアーティストが

日本独自でヒットするのと同様に、

両国ではスーパースターではあるものの、

日本では、あまり注目されないアーティストが居ます。

そこで、今日紹介したのが、

「ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド」です。

アメリカでは、チャートNo.1ヒット曲があったり、

アルバムがミリオンセラーを記録したりと、スーパースターなのですが、

日本でのセールスと知名度は、あまり高いとは言えません。

イーグルスの、グレン・フライなどは、

「自分に最も大きな影響を与えてくれた人」とまで

言っているのに、不思議なものですよね。

今日は、そんな「ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド」

の楽曲の中から、1978年・全米12位のヒット曲

「夜のハリウッド」をお送りしました。

9月11日(木)の名盤は…

今日は、1970年代初頭に結成された男性2人、女性2人からなる

4人組のコーラス・グループ、マンハッタン・トランスファーを紹介しました。

基本的にはジャズ・コーラスの流れを汲むものの、

ドゥー・ワップやリズム&ブルースの影響も大きく、

ジャイヴ、カリプソ、シャンソンからブラジルまでも取り込み、

あくまでもポップに仕上げる独特のスタイルは、

まさにジャンル分けが不可能です。

グラミー賞をジャズ部門とポップ部門にまたがって

通算8度も受賞していることからも、本物のボーダーレスな

音楽であることが分かると思います。

おそらく、まだジャズだのリズム&ブルースだのロックだのが

誕生する以前、音楽が細分化する以前の根っこの部分を

ルーツとしてしっかり押さえているからこそ、ジャンルなんか飛び越えて、

彼ら独特のボーダレスな音楽になったのかもしれません。

今日は、そんな彼らの楽曲の中から、

1960年代のリズム&ブルースのグループ、アドリブズのカバー曲で、

1981年、ポップチャート7位を記録した曲、

「ボーイ・フロム・ニューヨーク・シティ」をお届けしました。

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