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名盤 IN A DAY

6/17 「ソロ」

今日は、1990年代、ソウル・マニアから”救世主”と呼ばれ、

熱烈な支持を受けたボーカル・グループ、ソロを紹介しました。

先日、彼らが再結成して、8月には来日公演まで行なうというニュースが

発表されました。

決して大ヒットを記録したわけではなく、

実質3年間の活動で2枚のアルバムしか残していないにもかかわらず、

彼らの復活を喜ぶファンの声があちらこちらからたくさん聞こえてきます。

それはなぜなのでしょう。

もちろん、まず第一には彼らの実力が飛びぬけていたこと。

実は90年代は意外と男性ボーカル・グループは実力派揃いだったのですが、

その中でも彼らの上手さは頭ひとつ、いや頭ふたつくらい抜きん出ていると

言われていました。

そしてもう一つは当時の音楽背景を思い出してみる必要があります。

90年代のブラック・ミュージック界はヒップ・ホップという大きな柱があって、

それ以外のラップではない歌モノ、いわゆるR&Bとの二本柱でした。

で、このR&BはHip Hop以降の新しい感覚が前面に出ていて、

1960年代、70年代から脈々と続くソウルの伝統から外れているかのような、

ちょっと別の流れのような感触があったんです。

そうなると当然、そのスキ間を埋めようと、伝統的ソウルの流れを汲んだような

R&Bが生み出されてきます。

”ニュー・クラシック・ソウル”と呼ばれる動きがそれで、

ソロもその流れから出てきたのは事実ですが、他のほとんどが、

「ちょっと70年代風味を取り入れてみました」といった感じでしかなかったのに対し、

彼らは実にストレートに伝統を踏まえた、古き良き時代のソウルと直結した歌を

聴かせてくれたのでした。

だからこそ“最近のR&Bってやつはどうも・・・”というオールド・ソウル・マニアに

救世主として受け入れられたのです。

1972年の大ヒット、ドラマティックスの「イン・ザ・レイン」をサンプリングしたこの曲も、

嫌味ではなく必然性が感じられるのです。

今日お届けしたのは、ソロで「エクストラ」でした。

6/10 ブッカー・T.&ザ・MG

今日は時の記念日ということで、「時間」にちなんだ名盤を用意しました。

この「時間/Time」をテーマとする曲には名曲が本当にたくさんあって、

パッと頭に浮かんだだけでも10曲や20曲はすぐ出てくるほどなんですが、

今日はグッと渋いところでソウル・インストの名曲を紹介しましょう。

ブッカー・T.&ザ・MGズ、1969年の大ヒット「タイム・イズ・タイト」です。

ザ・MGズとは変わったバンド名に思われるかもしれませんが、

これはメンフィス・グループの略。その名の通り、

ブルース/ソウルの聖地メンフィスを代表する名門バンドなのです。

忌野清志郎が、彼らとやりたいためにメンフィスまで飛んでアルバム

(その名も「メンフィス」)を制作したことや、

あのブルース・ブラザーズのバックでもメンバーが大きく関わったことで

ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、なんといっても全盛期は1960年代。

バンドの中に歌手がいない彼らは、

この曲の他にもたくさんのインスト・ヒットを放っていますが、

それ以上に重要なのが、

ソウルの名門レーベル、スタックスのハウス・バンドとしての仕事でした。

オーティス・レディング、サム&デイヴ、ウィルソン・ピケットなどの

代表曲の多くは、彼らの演奏なしにはありえなかったと言えます。

全盛期のメンバーは、ブッカー・T・ジョーンズ、アル・ジャクソン、

スティーヴ・クロッパー、そしてドナルド・”ダック”・ダン。

彼らのプレイはとにかく、ファンキーでグルーヴィーで

ブルージーでソウルフル。

スタックス・ソウル・サウンドを支えたこの素晴らしいバンドの半分、

ギターのクロッパーとベースのダック・ダンの2人が

実は白人だということも覚えておきたいところです。

さて、この曲は映画のサントラのためにメンバー4人で作ったものですが、

ひょっとしたら自分達のリーダー作と、いろんな人のバック演奏で

大忙しだった彼らの心の叫びだったのかもしれませんね。

今日お届けしたのは、ブッカー・T.&ザ・MGズで「タイム・イズ・タイト」でした。

6/3「リック・スプリングフィールド」

このコーナーでは、時々“長い不遇の時代に耐え、あきらめずに

がんばった結果ついに報われた“というミュージシャンの

エピソードを紹介していますが、

今日紹介したのもそんな一人、リック・スプリングフィールドです。

オーストラリアのシドニー出身の彼は、10代でバンド・デビュー。

本国で大人気となりますが、他のオーストラリアの音楽家のほとんどが

そうであるようにアメリカでの成功を夢見てバンドを解散させ、

1972年、単身アメリカに渡ります。

すぐに大手レコード会社と契約、世界向けデビューを果たし、

シングル、アルバムともスマッシュ・ヒットと幸先良いスタートを

切ったかに思われました。

しかし、会社側の”アコースティック・サウンドのアイドル“的な売り出し方に反発し、

レーベルを移籍。

ここでは音楽的には彼の望む通りのロック・バンド・サウンドを

やらせてもらえたものの、アルバム自体は安易な企画モノで、しかもさっぱり売れず、

さらにマネージャーとのトラブルが訴訟にまで発展したせいで、

長い間活動休止に追い込まれてしまったのです。

活動再開後は大手とは契約が取れず、アニメのサントラで食いつなぎ、

やっと新しい会社に拾ってもらったと思えば、弱小インディー・レーベル。

それでもくさることなく、4作目にしてやっと会心の出来が完成するも、

発売後すぐに会社が倒産。

市場にほとんど出回ることなく廃盤となる悲劇。

絶望した彼はしばらく音楽業界から足を洗います。

そんな時ルックスの良さを買われて俳優に挑戦したところ評判が良く、

1981年には昼メロドラマの主役で大人気となったのです。

このチャンスを逃すまいと音楽活動を再開したら、

以前とは比較にならない制作費が用意され、

思い通りの作品を作ることができ、全米No.1を獲得したのです。

これも”人気俳優“という肩書きがあればこそだと思えば、

数々の試練も決して遠回りではなかったのかもしれません。

しかし本当に、あきらめさえしなければ人生何が起こるかわかりませんね。

今日お届けしたのはリック・スプリングフィールドで「ジェシーズ・ガール」でした。

5/27 Norma Jean

今日は「イカ天」について紹介しました。

およそ20年前の平成元年初頭から平成2年末まで、

土曜深夜に放送されたテレビ番組で、正式な名称は「いかすバンド天国」。

毎週10組のアマチュアバンドが出場し、

最も高い評価を得たものが、前の週の1位である「イカ天キング」に挑戦、

5週勝ち抜けば「グランドイカ天キング」となり、

メジャー・デビューできるというものでした。

丸2年でおよそ850組のバンドが登場。

空前のバンド・ブームを巻き起こした伝説の番組ですが、

現在も人気の高い有名バンドを輩出したかと思えば、

ほとんど色モノというバンドも出演したりとまさに玉石混淆、

人気を盛り上げた反面、ブームの終焉も早めてしまった功罪ともに

大きかったのでした。

そんな中から今日紹介したいのは

女性5人組のバンドNORMA JEANです。

そこそこ高い演奏力、声量があり魅力的なボーカル、

そして素人っぽく明るいキャラクターで、

番組の初期を彩ったバンドのひとつでした。

特別に凄いわけでもなく、変な個性派でもなく、

思わず感情移入して応援したくなるクラスの人気者というムードは、

ある意味最もイカ天らしいバンドと言えるかもしれません。

彼女達は第11代イカ天キングを勝ちとると、すべて接戦で4週を勝ち抜き、

さらに人気が上昇します。そして最後の5週目に立ちはだかったのが、

あのBEGINでした。しかも曲は名曲の「恋しくて」。

これ、当時見た人はわかると思うのですが、

高校の文化祭の中にセミプロが混じった感じと言うか、

ちょっと次元が違いました。

夢まであと一歩という最後の最後で圧倒的大差の完敗を喫し、

呆然とする彼女達に審査員の一人が声を掛けました。「耐えて燃えろ!」と。

その審査員というのが先日亡くなったラッシャー木村さんでした。

番組史上に残る名場面のひとつと言えると思います。

この言葉通り、悔しさに耐えて燃えたNorma Jeanはメジャー・デビューを果たし、

この曲でオリコン9位。

シーンにしっかりと爪跡を残したのです。

今日お届けしたのは、NORMA JEANで「GET A CHANCE!」でした。

5月20日「アメリカ」

今日は、1970年代に多くのヒット曲を放ったグループ

「アメリカ」を紹介しました。

シカゴとかボストンとか地名を名乗るバンドは他にもありますが、

その中でも一番大きく出たのがこのアメリカ。

でも、今にして思えば彼らのイメージやサウンドは

この名前に大きく翻弄されてしまったのかもしれません。

ファンの方はご存知だと思いますが、彼らは在英米軍の子どもたち3人によって、

ロンドンで結成されました。

要するに”イギリスのアメリカ人”という軽いジョークの

つもりのネーミングだったのでしょう。

そして1972年、デビュー・アルバムからシングル・カットした「名前のない馬」が、

まずオランダでヒット。そしてイギリスに飛び火して、

最終的にアメリカでもNo.1となり、一躍スターとなったのです。

世の中は折しもウエスト・コースト・サウンド、

中でもアコースティック・サウンド・ブームの真っ只中。

その流れに上手くハマったわけですが、

ブームの中心的存在であるクロスビー、スティルス&ナッシュに、

3人組という編成から、3人とも曲を書けて歌もイケるというスタイル、

何よりも曲調そのものが似ていることで批判も受けることになります。

けれども本当にそうでしょうか?ロックに詳しいリスナーなら

聴いてわかると思うのですが、

彼らのメロディにはほんのりとイギリスとラッドの香りが漂いますし、

音色の肌触りも西海岸のカラッと乾いた感触と明らかに違う、

湿り気のあるイギリス独自のものなのです。

イギリス在住の人によるロンドンでの録音なので当然な話なのですが、

大胆なグループ名を名乗ってしまったが故に、

聴き手のほうが偏見をもってしまったのかもしれません。

この”にじみ出るイギリスの香り”をもっと前面に押し出していったほうが、

逆に名前との落差が個性となって人気が

長続きできたように思えてなりません。

どうせハナッからアメリカなんて背負ってないんですから。

でも彼らはどんどんアメリカナイズされていき、ついにはアメリカに移住。

完全にその他多数の本当のアメリカのグループの中に埋没してしまいました。

今日お届けしたのは1972年全米1位のヒット曲

アメリカで「名前のない馬」でした。

5/13「ランDMC」

今日も先週の続き♪

先週お送りしたトム・トム・クラブの「おしゃべり魔女」のヒットで

身近に感じられるようになったラップ/Hip Hopでしたが、

その後はまた何年も目立つヒットは生まれず、

まだまだ日本の音楽ファンから市民権を得るには至りません。

しかし1983年末、Hip Hopカルチャーを描いた映画「ワイルド・スタイル」が公開、

翌84年にはラップ界の大物グランドマスター・メリー・メルが

見事なラッピンを絡ませたチャカ・カーンの「フィール・フォー・ユー」が大ヒットと、

少しずつですが確実に下地は出来ていたのです。

そして1986年。ついに黒人による本物のラップ・ヒットが誕生しました。

ランDMCの「ウォーク・ディス・ウェイ」。

これは多くの意味でエポック・メイキングでした。

まずはさっき言った通り初の本格ラップ・ヒットだったこと。

次にファッションをはじめとするHip Hopカルチャーを伝えたこと。

3つめに他人のレコードをそのまま使って再構築するという

Hip Hopの本質を実にわかりやすく教えてくれたこと。

4つめは当時世界で一番影響力のあったロックを利用したヒットだったこと。

これなくして日本での普及はなかったでしょう。

5つめは3つめ、4つめに挙げた点とも関係がありますが、

この曲、エアロスミスのカバーなんです。「ネタに使った」ではなく「カバー」。

歌い方(というか、しゃべり方)もほぼそのまんまだったのです。

要するに原曲のエアロがすでにラップだったという、

それまで誰も気付かなかったことを逆説的に示してくれたこと。

これによってロック・ファンにとってラップとの間の壁がグッと下がったのです。

そうして白人ロック・ファンを油断させておいて、

さらにそれまで何十年と続いた「黒人音楽を模倣し、盗み、搾取する白人」

という図式を根本から覆したこと。これはとても重要なことでした。

このたった1曲のヒットがラップ人気を爆発させ、

10年後には音楽勢力地図を完全に反転させ、

搾取の構図をも逆転させるきっかけとなったのです。

今日お届けしたのは、ランDMCで「ウォーク・ディス・ウェイ」でした。

5/6 「トム・トム・クラブ」

2年ほど前のこのコーナーで、

”ほとんどの日本の音楽ファンにとってのラップ初体験は

ブロンディの「ラプチュア」とクラッシュの「7人の偉人」だった”

と紹介しました。

その後一気にラップ/Hip Hopが受け入れられたかというと、

そうではありません。

言葉や文化の壁があり、なかなか浸透することはできなかったのです。

そもそも一般的音楽ファンからすると、”ブロンディのちょっと変わった新曲”とか

“クラッシュがやってるので、パンクのひとつの形態”という認識でしかなく、

その後ろに存在するブラック・カルチャーなどはまるで見えてなかったのです。

そんな大多数の日本人の前に、次に登場したラップ音楽は、

ほぼ1年後の1981年末から82年初頭、

やはりクラッシュの「ディス・イズ・レディオ・クラッシュ」と、

トム・トム・クラブの「おしゃべり魔女」でした。

クラッシュの場合は2作続いたため、カンの鋭いパンク・ファンは

”何か新しい動きがあるんだな”と薄々ながら感づくことができましたし、

トム・トム・クラブは音の感触が従来のロックの文脈とは

微妙に違うことに気付かせてくれました。

今にして思えば、その感触こそ”Hip Hop感覚”なのですが、

当時の日本人にとってはそこまで理解できるはずもなく、

彼らの正体が実はトーキング・ヘッズの

リズム隊であることが知れていたため、

やはり新しいロックの一部という解釈にとどまってしまったのです。

さらに「おしゃべり魔女」は、まぁ、これはあえてやっているのですが、

かなりヘタウマ感というか、キワモノっぽい作りだったため、

ノヴェルティ・ソング的な売れ方をしてしまい、

ラップ/Hip Hop的なるものが、

より解りにくくなってしまったかもしれません。

まだまだラップが日本に根付くには時間が必要な時代でした。

今日お届けした曲は、トム・トム・クラブで「おしゃべり魔女」でした。

4/22「トム・ロビンソン・バンド」

今週はパンク・ロックの「トム・ロビンソン・バンド」を紹介しました。

彼らはロックのガイド本などではパンクに分類されることもあれば、

パンク以外のニューウェイヴや、

あるいはパワー・ポップに入れられたりすることもあり、

ポップで親しみやすいサウンドです。

トム・ロビンソン・バンドはひとつの枠に収まりきらない、

様々な要素を持った音楽性であることは間違いありません。

今日お届けした局は、

”パンク=暴力的でうるさい音楽”という認識の方からすると

拍子抜けするくらいキャッチーだったのではないでしょうか?

それにもかかわらず、何故彼らがパンクに分類され、

しかもそれに違和感がないのかといえば、

それは彼らの精神がパンクだからに他ならないのです。

パンクとは何か?というのは深いので、別の機会に詳しく取り上げたいのですが、

一言で言えば”パンクとはスタイルではない。アティチュード(態度、姿勢)だ”

というジョー・ストラマーの名言が全てを語っています。

トム・ロビンソン・バンドのリーダー、

トム・ロビンソンはゲイであることを公言しています。

しかし見世物的にゲイを売りにするのではなく、

真摯にかつユーモアと毒をまじえながら、

自分自身と他のゲイの人達の権利のために、

さらにすべてのマイノリティ=弱者のために、

社会や政治の差別に対して歌で闘っているのです。

パンクが勃発したからこそ、こうした少数派の主張が

表舞台に出るようになったわけですし、

何よりも弱者の立場から巨大な敵に立ち向かう”アティチュード”は、

パンク以外の何者でもないと思います。

4/15 ザ・ビートルズの解散は…?

ザ・ビートルズは一体いつ解散したのか?

これはいろんな説が議論されていて、いまだ決着がついていません。

というのも、ビートルズは現在に至るまで

正式な解散宣言をしていないからなのです。

“だから解散していないのだ”という説もありますが、

一応解散していることを前提に有力な説をいくつか紹介しましょう。

一番有名なのは1970年4月10日、ポールが脱退を表明、

翌日の4月11日にプレスがビートルズの解散を一斉に報じたというもの。

しかし、この時のポールの言葉には脱退も解散もないのです。

“ビートルズの活動の行方はわからない”

”でもジョンとの共作活動は今後はありえない”と言っただけなのです。

あと有名なのは同じく1970年の12月31日、

ポールが”ビートルズ解散要求”の訴えをロンドン高等裁判所へ

提出したこの日という説。

これも実際には1967年にサインしたビートルズの

パートナーシップ契約(ソロ活動分も4人の分配とする)の解消を訴えたもので、

厳密には解散要求ではありませんでした。

さらに翌年1971年4月26日、この訴えに他の3人が

異を唱えなかったという日こそビートルズの最後とする説。

この裁判に決着がつくのは1975年1月9日で、

この日が法的には解散であるのは間違いないのですが、

さすがに何年も実質的には解散状態にあったわけですから、

この説はちょっと弱いでしょう。

もうひとつ有力なのは1970年4月17日説。

ポールの初ソロ作品「マッカートニー」がイギリスで発売された日です。

後期ビートルズのリーダーであり、誰よりもバンド存続を願っていたポールが、

他の3人がやめると言っても(実際3人とも1度やめている)

なんとかなだめたポールが、

他の3人がすでにソロ活動を活発に始めても一人だけ

頑なにやらなかったポールが、

ついに初のソロ・アルバムを発表してしまったのだから、

この日こそ実質的なビートルズの最後だろうというものです。

ということで、今日はそのポールの1stソロからお送りしましょう。

あなたはどの説を支持しますか?

こんな答えの出ない問題を延々と考えるのもファンの楽しみですよね。

4/8(木) エイス・ワンダー

歌の内容にかかわらず、”この曲を聴くとある季節を思い出す”とか、

”この季節になるとなんか無性にあの曲を聴きたくなる”なんてこと、

皆さんはありますか?

今日は、僕がこの時期に聴きたくなる、

エイス・ワンダーの「ステイ・ウィズ・ミー」を紹介しました。

実は歌詞とかイメージとかがこの季節を感じさせるというものではなくて、

ただ単純にこの季節に流行っていたというだけなんですが。

1986年の春休みはこの曲一色だったといっても過言ではないぐらい、

ラジオでは毎日流れていましたし、スーパーに入れば

店内放送でもかかってましたし、

外を歩いてもどこからともなく聴こえてきました。

また、あるテレビのキャンペーン・ソングにもなっていたので、

テレビからも連日流れていました。

でもなんといってもプロモーション・ビデオが印象的でした。

当時17歳の紅一点ボーカル、ミニ・スカート姿の

パッツィ・ケンジットの可愛かったこと。

特に1986年を学生として過ごしていた方には「ステイ・ウィズ・ミー」と

パッツィの姿が1セットになって当時の思い出と共に

この時期になるとフラッシュバックするという方、

甘酸っぱい、青臭い思いが胸をかきむしるという方、

いらっしゃるんじゃないでしょうか?

リアルタイムで知らない世代にとっては、

オアシスのリアム・ギャラガーの奥さんだったこともある女性というと、

少しは親近感を持ってもらえるでしょうか。

ちなみにこの曲、日本盤は1986年の3月21日発売で、

86年オリコン洋楽年間1位の大ヒットでした。

お届けしたのは、エイス・ワンダーで「ステイ・ウィズ・ミー」でした。

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